新解釈「桶狭間の戦い」 『歴史群像』2019年10月号掲載  文=かぎや散人(歴史研究家)  構成=水野誠志朗

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2019年に、雑誌『歴史群像』で発表した、新解釈「桶狭間の戦い」の全文を掲載します。これはかぎや散人氏の原稿を水野が構成して、さらに歴史群像編集部の校閲を経たものです。やや難解な部分は、おいおい解説を加えていきます。

第一回 研究史と通説

信長は本当に「正面攻撃」で勝利したのか

 織田信長の余りにも劇的な全国史への登場場面「桶狭間の戦い」はしかし、多くの謎がともなう義元の本陣位置、信長の攻撃ルート、その勝因……
 陸軍参謀本部に始まる、多くの研究者の足跡に対し現地にゆかりのある筆者が史資料を読み解く中で辿り着いたもう一つの可能性とはー

 桶狭間の戦いは、永禄三年(一五六〇)、尾張を統一した織田信長が、 駿河・遠江・三河三か国を支配した大大名今川義元を尾張国桶狭間(現・愛知県名古屋市緑区)で討ち取った戦いである。
 信長が天下人への道を進んでいく契機となった戦いとしてあまりに有名だが、その経過に関しては、史料によって、またその解釈によって、これまで様々な説が提示されてきた。しかし、後述するように、現在の定説に疑問を抱いてきた筆者は、桶狭間の近くに住んでいたこともあって、十五年にわたって合戦の現地を取材し、史資料の研究を行ってきた。
 本稿では、こうした研究の結果たどりついた、定説とは異なる、新たな桶狭間合戦像について述べたい。

桶狭間合戦への道

 筆者の説を述べる前に、桶狭間の戦いに至るまでの経緯をざっと見ておこう。これに関しても昨今急速に研究が進んでおり、最新の説を踏まえつつ、筆者の見解も含めて紹介する。

 駿河と尾張との間には、長い戦いの歴史がある。信長の生まれる二〇年ほど前の永正十年(一五一三)まで、尾張守護の斯波義寛・義達と駿河守護の今川氏親(義元の父)との間で遠江支配をめぐる争いが続いたが、斯波氏が完敗して遠江を失うことで決着がついている。

 その後は天文十六年(一五四七)に、西三河の松平氏の宗主権争いに介入した尾張の実力者・織田信秀(信長の父) が、西三河の安城城を手に入れ、岡崎城主・松平広忠を打ち破って、降参した広忠からその嫡子・竹千代(後の徳川家康)を人質にとった。しかし信秀 の矢作川を越えての侵出とその後の広忠の頓死は、今川義元の西三河進出を早めることになり、翌十七年の小豆坂合戦となる。ここで敗れた信秀は、次いで安城城も攻め取られ、捕虜となった長男・信広と竹千代を交換させられ、 西三河一帯を失う結果に終わった。

 その信秀は天文二十年(一五五一) に四十二歳という若さで病死した (異説あり)。これに動揺した尾三国境の鳴海城主・山口教継が、沓掛城主・近藤春景を誘って今川方に帰順した。これが桶狭間の戦いの遠因となる。信秀の後を継いだ信長は、即座に兵を出し山口教継、教吉親子と赤塚合戦を戦うが、鳴海城を奪回することはできず、これより桶狭間の戦いに勝利するまで鳴海城は今川方の手にあった。

 さらに、今川方は織田方に留まった知多半島の付け根にある緒川 (小川) の水野信元に対して、すぐ北側の村木に砦を築いた。そして半島西部の寺本城主・花井氏を取り込んで、信長と水野氏の分断を図った。これに対して信長は、すぐさま風雨を冒して知多半島に渡り、天文二十三年(一五五四)に村木砦を奪還している。

 しかしその後は、信長も義元もそれぞれの領国の反対勢力鎮圧に追われることになった。信長の方は永禄二年(一五五九)に岩倉織田氏を下して、一応の尾張統一を果している。一方、義元支配下の三河では全土にわたった反今川勢力の蜂起が起きたが、これも弘治二年(一五五六)末には終息したとされる。しかし実際には人質だった松平元康を三河に帰国させて間接統治をする必要があり、さらには義元自身も三河守を朝廷に申請して、自身が直接領国支配に携わらざるを得なくなっていた。

 通説では、桶狭間の戦い直前における尾三国境での争いは、今川方が優勢であったと考えられているが、筆者はそうは思わない。今川方に居城・岩崎城を明け渡していた織田方の丹羽氏が、弘治元年(一五五五)には居城に戻っており、永禄元年(一五五八)には織田方は国境の北部で、失敗はしたものの品野城(瀬戸市)を攻撃している。

 また通説では信長による三河・高橋郡(豊田市)侵攻は『信長公記』の記載順から、桶狭間の戦いの翌年、永禄四年 (一五六一)四月上旬とされている。 しかし同年四月十一日に岡崎の松平元康は東三河の牛久保城を攻めて、公然と今川からの独立を目指すことを表明している。もし同月に信長の高橋郡侵攻があったなら、東三河遠征などしていられたはずがないだろう。また同年五月十一日には隣国美濃の一色(斎藤) 義龍が急死したのを受け、信長は西美濃に侵攻した。 またその後は犬山織田氏の謀反にも手を焼いており、この時期に高橋郡が新たに信長へ属することになる機会はないだろう。このことからも、信長の高橋郡侵攻は桶狭間の後ではなく、前に行われたと見なすべきではないか。さらに、今川方に奪われていた笠寺界隈の桜中村砦や笠寺砦なども桶狭間の戦いの前には既に奪回していたと思われる。

 今川方は鳴海と沓掛の二城を鳴海城主であった山口教継の裏切りによって 手に入れていたが、先に述べたように尾三国境で形勢は逆転して、劣勢を強いられており、はっきりした時期は不明だが、一発逆転を期した山口が大高城を欺瞞して奪い取る挙に出た。これ にすぐさま反応した信長は、鳴海・大高両城を付城で封鎖したため、特に大高城は兵粗欠乏に困窮して、ついに義元の駿河からの後詰(救援)を招くに至った。これが桶狭間の戦いの直接の原因となる。このように、この時点で今川方が優勢などということは有り得ないと思われる。

桶狭間の戦いについて記された史料

 次に、桶狭間の戦いの研究に用いられる史料について説明しておきたい。基礎となる史料だが、まず何より重要なのは『信長公記」である。信長の家臣太田牛一が著した信長の伝記だ。桶狭間の戦いについて記載があるのは、信長が上洛した永禄十一年(一五六八)以 降、毎年一巻という編年体で編まれた本編一五巻とは別に、後からまとめられたと考えられている「上洛以前の記」 (以後、「首巻」という)だ。

 桶狭間の戦いについて詳細に記述された史料は、傍証となる一次資料の文書類(岡部五郎兵衛尉宛今川氏真感状など)を除いて、この「首巻」以外には一切ないことから、「首巻」が最重要視されている。また、本編の記述の信頼性の高さも証明されており、「首巻」は一次史料に準じるものとされている。
 
 その「首巻」は牛一の自筆本が未だに発見されていない。残っているのは写本のみで、その写本も町田久成本、陽明文庫本、旧南葵文庫本、そして平成二十六年(二〇一四)に『愛知県史 資料編14』において印刷物として読めることになった天理大学附属天理図書 館所蔵本(以後『天理本」という)を加えた四種類・一〇点あまりしかない。
 
 四種類の「首巻」の中でも『天理本』は先の三種よりも古態を留めていると言われる。また他の三種の写本とは著しく異なった独自の内容を持っている。そればかりでなく、これまで創作とみなされて史料としての価値を一切付与されてこなかった小瀬甫庵の「信長 記」(以後、『甫庵信長記』)の内容に非常に似通った記載がある。

 この点について、東京大学史料編纂所の金子拓氏は、桐野作人氏の研究過程で明らかにされた特徴、すなわち「天理本(の「首巻」)は桶狭間合戦の場面において具体性・臨場感をもった記述がある点、『甫庵信長記』の成立に影響を与えた のではないか」という点を指摘している。

 他には編纂史料がある。これは、後世になって桶狭間の戦いに関する残存資料や口伝などを集めて編纂された書物で、泰平が到来した江戸期に、当時の身分制社会では自身の出自が「家格」を決める最も重要な要因であったため、先祖がいかに徳川家に忠誠を尽くしてきたか、いかに武芸に秀でていたか等を誇示すべく一斉に、しかも大量に作られた。

 江戸期もやがて町人文化が花開くと、庶民も歴史に興味を持つようになり、歴史は出版物の一分野となった。その中のひとつに「軍記物」と呼ばれるものがある。これは武士の活躍を描いた文芸作品で、一般に史料的価値は低い。 ただし、『甫庵信長記』と『三河物語』はその成立時期の早さから、事実を記録した部分がかなり含まれていると筆者は考えている。

 『甫庵信長記』は池田恒興や堀尾吉晴らに仕えた小瀬甫庵が慶長十六年(一六一一)頃に刊行し、一般に広く読まれた信長の一代記である。『信長公記」だと「首巻」にあたる時期の記述のうち一割ほどが桶狭間の戦いについて書かれており、合戦前夜の軍議のあと酒宴に入ったとの記述などは『天理本」と『甫庵信長記』にのみ共通するところだ。

 しかし、儒教的価値観に沿っての、 また講談調で調子よく語る上での創作も多いとされ、史料としての価値は低いとされてきた。とはいえ『天理本』の研究が深まり、その内容のうち、『天理本』にしか記載されていない部分の正しさが確認されれば、虚飾をはぎ取ると、合戦前夜の軍議の描写のごとく『天理本』と類似する内容を多く含む『甫庵信長記』は、逆に価値のある史料ということになろう。前出の歴史研究者の桐野作人氏などは、『甫庵信長記』を再評価すべきではないかと提言している(歴史読本二〇〇七年八月号別冊 付録「信長記」大研究5頁)が、筆者もそれに賛同する。とはいえ、常に「首巻」と照らして慎重に読まなければならない。

 それには、事実と考えられる部分だけを取り出す必要がある。次に、書かれた記事の時間経過や前後がいい加減であるから、「首巻」 の記述に照らして、再構築したうえで読まねばならない。

 例えば、簗田出羽守が信長に

「簗田出羽守進出テ仰最可然候敵ハ今朝鷲津丸根ヲ責テ其陣ヲ不可易然レハ此分ニ懸ラせ給へハ敵ノ後陣へ懸り合フ間必大将ヲ討事モ候んソ只急せ給へト申上ケレハイシクモ申ツル者哉ト高聲二宣フ」

「簗田出羽守が進み出て、『仰られることはごもっともでございます。 敵は今朝、鷲津丸根を攻めてその陣を取り替えてはいません。しかれば、すぐにでも攻めかかられたなら、敵の後陣を襲って大将を討ちとることもできましょう。ただただ急いでください』と 申し上げると『殊勝な事を言うやつだ』 と大声で皆に言われた)」

 という有名な場面などは、「首巻」には記載されていないが、もしそれが史実であるならば、これは、後述するように、突然の風雨が襲ってきて、山際の信長が全軍に原初東海道を進むように命じたときのことであるはずだ(後述)。

 また『三河物語』は、家康の家臣であった大久保忠教が、一族の武功を公にすることで自家の家格向上を図るために著したもので、今に言う「安城松平家中心史観」のもとになった著作物 で、元和八年(一六二二)頃には成立している。桶狭間の戦いについての直接的な記事はないが、今川方として従軍した松平元康(後の徳川家康)隊の動向を中心に、「今川方から見た善照寺砦の織田勢の様子」を伝える唯一の史料で、より深く検討すべきものであることは間違いない。

 この他に研究書の類もあり、十八世紀には桶狭間の戦いを研究対象として山澄英竜『桶狭間合戦記』が現れ、 十九世紀になると、山崎真人『桶狭間合戦記』と田宮篤輝『新編桶狭間合戦記』が、山澄の研究を参照した考察として発表されている。しかし、編纂史料も研究書も、あく まで著者の解釈や考えを披瀝したもの であって、新たな証拠を提示できてい るわけではない。

 以上の中から筆者は、古態であることを評価して『天理本』、そしてそれを補完する『甫庵信長記』と、今川方から見た唯一の記録である『三河物語』を重視すべきと考える。むろん、『天理本』以外の三種の「首巻」を排除することはしないが、合戦から五〇~六○年ほど後という比較的近い時期に成立したこれら三冊を中心に桶狭間の戦いを解釈することで、この合戦の実像 に迫ることができると考えた。

地形と道

 さて次に、当時の桶狭間の「地形」と「道」に関して基本的な事柄を記しておく。既存の説は地形的に実行不能な説が多いからである。

 桶狭間の戦いで戦場となった地域は、名古屋市緑区桶狭間の周辺で、現在は名古屋市と豊明市にまたがる一帯である。しかし特に海岸線が現在と大きく異なるのでまず注意が必要だ。当時は伊勢湾が今より内陸へ入り込んできており、鳴海城の南側と西側は海であっ た。大高城も鳴海から海岸が続き、海に面していた。

 この一帯は南に伸びる知多半島の付け根にあたる部分で、緩やかな丘陵地帯となっている。現在JR東海道本線が走る地峡(仮称、大高地峡)を境にして、北が「尾張丘陵」、南が「知多丘陵」と呼ばれている。

 「尾張丘陵」(鳴海丘陵とも言う)は、扇川以南を「有松丘陵」、北側を「鳴子丘陵」という。一帯には標高五〇メートルから八〇メートルほどの小山が点在している。比高は二〇〜三〇メー トルに過ぎないが、定高性がある。その中で最も高い孤峰が「二村山」で、標高七一・八メートルあり、中世には鎌倉街道がその「峠」を通っていた。

 しかし桶狭間の戦いの頃には、 鎌倉街道は二村山の峠を通らず、 その南麓、現「濁池」の北縁を通っていた。これが合戦当時には三河・鳴海間の「本道」となる。このため、二村山の峠を通る旧い鎌倉街道を押さえていた沓掛城の戦略的価値は、桶狭間の戦いの頃に はすでに薄れていた。

 尾張丘陵の南部に位置する扇川以南の「有松丘陵」は、地峡(仮称、有松地峡)によって南北に分断されており、北部を「二村山西麓」、南部を「桶狭間丘陵」とここでは仮称しておく。有松地峡を通っている現在の東海道は戦いの当時はまだなく、閑道として利用 され始めていた(ここでは原初東海道とよぶ)。天正十二年(一五八四)の小牧長久手合戦のときに、徳川軍が進んでいることから、その頃までには軍勢が通行できるような道になっていたと考えられるが、信長が命じて領国の街道整備を始めるまでは、軍勢の通行には適さなかった。

 当時の道は、鎌倉街道、閑道としての原初東海道、大高道(大高~大脇)、中島から善明寺~丸内~前之輪(鳴海 八幡宮)を経て大高へと続く砂洲上の丸内古道、中島から南下して平部山越えをした小川道(鳴海~緒川)、そして鳴海道(鳴海~桶狭間)だけである 。

 そして当時存在していた付近の集落は、沓掛城のある沓掛村、その南の阿野村、さらに南の大脇村、その西の桶狭間村、さらに西の大高村、その北の鳴海村、その東の相原村、横根村である。また中島砦の中島にも小集落があったと「首巻」(以下、断りがない場合はすべての写本に記載されていることを意味する)に書かれている。なお 有松絞や旧東海道の古い町並みで現在では観光地となっている有松村は江戸時代の慶長十三年(一六〇八)に作られており、桶狭間の戦いの当時、まだ集落はまったくないことに注意していただきたい。

「正面攻撃説」の詳細

 ここで、現在定説となっている藤本氏の正面攻撃説について確認しておきたい。この説は概略次のような内容である。

 駿府を出発し、五月十七日に池鯉鮒 (知立)に到着した義元は、十八日には沓掛城に入り宿泊。一方、同日夜、松平元康隊が大高城に兵糧を入れた。
 合戦当日の十九日は、

 ①義元は午前十時頃に沓掛城を出て昼前に桶狭間へ着いた(以下、52頁地図参照)。信長も同じく昼前に善照寺砦へ到着したが、その頃には今川「前軍(藤本氏の造語)」が善照寺砦の「南東」の丘陵地帯に進出してきており、 戦場は今川方が支配していたと見なし ている。

 ②そして、その背後の桶狭間山(藤本氏は場所を特定してはいない)に義元は本陣を置いた。藤本氏は「本陣が谷間の低地とは限らない」と初めて指摘している。

 ③織田方の武将、佐々隼人正・千秋四郎らは信長の到着を見て、中島砦から今川「前軍」に攻撃を仕掛けたが、織田方は簡単に敗北した。これを見た義元は桶狭間山で勝利の謡をうたった。

 ④敗北を見た信長は中島砦に移り、さらにここから出撃するにあたって兵士たちに以下の訓示を行った。
「あの武者は宵に兵つかひ夜もすから参リ大高へ兵根入鷲津・丸根両城にて手ヲ砕辛労して草臥たる武者也(あそこに見える敵勢は昨夜の夕方に食事をしただけで、一晩かけて大高まで行軍して兵を入れたうえ、今朝は鷲津・丸根という二つの城攻めを行って骨折りし、青息吐息で、くたびれている敵ではないか)」(「首巻」)

 藤本氏は、信長のこの観測、今川方の兵が疲労困憊しているというのは信長の「誤認」であり、今川方は疲労していなかったとする。

 ⑤ここから織田方は今川「前軍」に向けて東向きに進軍を始め、中島砦の東の山際まで進んだ時に、東向きに吹きすさぶ豪雨となった。藤本氏は、「それ(風雨)が織田軍の背中、今川軍の顔に吹きつけ、しかも楠を東に倒したと言うから、織田軍は東向きに進撃したことになる」とする。

 ⑥雨が上がると、信長は東に向かっ て今川「前軍」への攻撃を開始する。すると「前軍」は簡単に崩れ、遠い本陣を目指して逃れた。信長がさらに東進すると、敗残兵が雪崩を打って逃げ込んだために、混乱した義元本陣も退却を始めたが、それを東に発見した信 長によって捕捉されて、義元本人が討ち取られてしまった。

 筆者はこの説の以下の点に疑問を持っている、あるいは問題があると感じている。

 ①十八日に義元は本当に沓掛城に泊まったのか。

 ②戦場の過半を今川軍が占領しているとし、中島砦の南の鷲津・丸根砦の ある丘陵(現・青山)や東の丘陵(現・平子ヶ丘[5頁地図も参照])も今川軍が占領しているとしている点。

 ③合戦直前の信長による兵士への訓 示の際の、今川方兵士の観測内容は「信長の誤認」だったのか。

 ④藤本氏が信長の「南東」に想定し 義元の本陣に対して、「首巻」では「東向き」に進んだとしていて、両者の「方角」の扱いが合致していない点。

 ⑤今川方「前軍」が信長軍の正面攻撃によって二キロメートルもの長距離を敗走して義元本陣に雪崩れ込み、混乱させたとしている点(ちなみにどの「首巻」にも、このような長距離を追撃したとは記されていない)。

 これらについての筆者の考えは、後述する筆者の説の中で適宜論じていきたい。

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