末盛、上野、守山の城を巡って、上野の下方氏についての考察をしてみました。このコースのツアーも、ぜひご依頼ください。

信長現地ツアー

鳴海中日文化センター定期講座、2026年度の現地講座一回目は、末盛城から、上野城、守山城まで歩きました(5月9日土曜日、途中、市バスを利用)。

末盛城は1927年の城趾実測図が『名古屋市史 資料編 考古2』に掲載されていますが、そこには丸馬出の存在が描かれており、これは信秀の時代にはありえないため、現在の遺構は小牧・長久手の戦いの折に、信雄によって作られたものだろうとされます。今の立派な堀も信秀時代ではなく信雄の頃のものでしょうね。

 1548年頃、信秀は病に冒され、鎌倉街道を抑える古渡の城は今川の侵攻に対して最前線となるため、そこを放棄して末盛城に撤退した、ということでしょう。古渡の城は清須勢からも攻められており、南北両面からの侵攻を恐れて放棄せざるを得なかったのでは。守山には弟の信光がおり、また東の一色、上社、下社には柴田勝家がいるため、守りとしては安心感の高い場所となる。その後、後奈良天皇からの停戦勧告によって、ひとまず末盛にいれば安全が確保できたと考えられます。

 末盛城の南には挙母(現豊田市)方面から尾張への道が通り、それは上野を経て守山へとつながっていました。『信長公記』に「末盛のならび守山の城」と書かれるのはそのためでしょう。

 『士林泝洄』によると、下方氏は、清和源氏で信濃伊那郡飯山城主とのこと。下方貞経は、大永年中(1521~27)に尾張国春日井郡上野村に移り住んだといいます。その下方氏の上野城の場所に、小関城跡もあったとされます。『角川・愛知県姓氏歴史人物大辞典』1991によれば、小関氏とは、瀬戸・下半田川の秦川城を拠点とした土豪の尾関氏のこと。応仁の乱のころ、大森城(守山区)を領しており、新居城(尾張旭市)の水野宗国と戦って、負け、領していた上野城まで逃げたという。つまり上野城はもともとは尾関氏の城で、大永年中に下方氏が入ったということになります。

 北1.8キロにある守山城の「守山殿」と呼ばれた道家氏が1500代初めに追放?あるいは没落し、そのあとに三河から安城(櫻井)松平信定が入ったのが1526年であることから、道家氏が追放されるのと尾関氏が上野城を失うのは同期しているようです。尾関氏は道家氏とともに追放されたのかもしれない。そして下方氏が上野に入ってきたのでしょう。

 このあたりは愛知郡と山田郡の境目であり、那古野今川氏の影響下にありました。1500年代初めに那古野今川氏や道家氏が没落し、1517年には斯波義統が遠江で今川氏親に敗れ、氏親によって那古野今川氏が復活がなされたとすれば、その流れの中で、道家氏や尾関氏がこの地を終われ、今川の関与で松平信定、下方らが進出してくる。そして信定や下方は織田弾正忠信貞と親しくなっていったのでは。

貞経の子の下方貞清(1527年生)は信秀配下の7本槍の一人。となるとその父の下方貞経は織田信貞・平手政秀と同世代のはずだから、貞経の貞は織田信貞の貞を偏諱でもらったものではないか、そんなふうに想像をたくましくしてしまいます。

 那古野今川、織田弾正忠、安城松平、駿河今川、そして下方貞経がこのエリアで関係を持つことになるわけです。そして一五三五年に守山城で松平清康が暗殺される「守山崩れ」が起きる。この事件の真相はこうした人間関係がもっと明らかになっていかないとわからないでしょう。

守山城に関しては城主の時代で以下、検討してみます。

松平信定の時代の守山城

 一五〇〇年代の始め頃、那古野今川氏が没落し、それと関連して守山の道家氏も没落する。尾張守護・斯波義寛は遠江の支配を駿河守護・今川氏親と争い、一五一七年に完敗する。このあと斯波氏が弱体化したためか、二四年頃に織田弾正忠信貞が貿易港・津島を掌握する。

 弱体化した那古野今川氏には駿河今川から今川氏豊とされる人物が養子として送り込まれ、二六年には守山へ安城松平氏(松平本家)の事実上の当主である松平信定が入ってくる。これに今川がどう関与したのかはわからないが、今川の偵察要員ともいえる連歌師宗長が祝いに来ている以上、否定的ではなかったのだろう。

 ただ、二六年に織田信貞が死に、十六歳の息子・信秀が跡を継ぐ。最近の研究では、信秀は那古野今川氏の娘を妻に迎え入れたともされる。こうした中で、一五三四年に信長が生まれ、その翌年に守山城にやってきた家康の祖父・松平清康が家臣の阿部大蔵の息子によって暗殺される。背景には松平氏の跡目をめぐり、親織田派と親今川派の対立があったようだ。

 三六年に今川氏親も死に、跡目をめぐって花倉の乱が起き、義元が勝つと、三八年に信秀は仲良くしていた那古野今川氏豊を追放して、那古野城へ信長を入れ、自らは古渡に城を作って、貿易港・熱田を支配した。そして四〇年頃松平信定が亡くなると、守山には弟の信光を入れた。信秀は尾張のリーダー的存在になっていく。

織田信光の時代の守山城

 信秀はその後、今川方となった松平氏と三河で戦い、岡崎城まで落とすが、そこからは急激に弱まり、最後は今川方との直接対決で小豆坂合戦に破れ、病に倒れた。古渡城は破却され、自身は末盛城に退いた。一五五〇年十二月にひとまず今川との停戦が決まったが、家督を継げなかった信長は一五五二年から独自に今川方と戦いだし、それは桶狭間まで続く。

 信長は三年ほどで今川勢をかなり押し返した。一五五四年の末には叔父の守山城主信光が死に、清須城に入って、実力では尾張のトップとなった。

織田信次の時代の守山城

 守山の事情に目を移すと、一五五五(天文二十四)年六月末ないし七月上旬、信長・信勝の同母弟である喜六郎が、信光の後の守山城主織田信次の家臣によって誤って射殺された。信次は譴責を恐れ直ちに出奔し、家臣たちが籠城した。信勝はいち早く守山の町に火を掛けた。信長は木ヶ崎口(矢田川南岸、長母寺まで単騎駆けつけたものの、それを知って清須に帰陣した。

 信勝は矢田川対岸の木ヶ崎口を家臣の柴田勝家・津々木蔵人を大将にして固め、信長はこれとは別方面に飯尾近江守らを置き、戦況は膠着状態となった。

 城下を焼かれた守山城家臣は、両長(家老)の角田新五(後に稲生合戦で戦死)と坂井喜左衛門と子の孫平治(後に秀俊の寵愛を受け角田に殺される)、坂井七郎左衛門(後に長島で信次と共に戦死)、高橋、喜多野(北野ヵ)、そして岩崎の丹羽源六氏勝(岩崎城主の子・天正八年に林秀貞らとともに追放される)らで城に籠もった。

 これは信長・信勝に対する謀反となったため、今川方からの援軍として丹羽を引き入れたと考えられる。誤射事故に今川勢が付け入ってきたのではないか。

 信長は佐久間信盛の策で調略を行なった。織田秀俊を守山の新城主に据え、守山を自身の勢力下に組み入れた。秀俊は信長の傀儡で信長は軍事的劣位を挽回した。

 しかし一五五六年になってから角田新五が秀俊を自害に追い込み、またも籠城した。信長は信次を守山へ戻すことで籠城衆を懐柔することに成功。しかし信長主導で進む守山情勢に信勝らは不満をつのらせていき、ついに稲生の戦いに至る(右の図は愛知県史掲載の信長包囲網。赤線の城とその東側は信長に敵対した)。

 この年一五五六年の四月に岳父斎藤道三が息子の義龍に討たれると、反信長勢が蜂起し稲生合戦となる。しかし信長が勝利して、尾張の反信長の動きは終息した。信長は尾張一統の最終段階として信勝を謀殺。

 その後も守山城には信次が入っていたようで、昨今の研究では天正元年(一五七三)に小谷の戦いで助け出されたお市とその子の三姉妹は、信次の元、一年間守山城にいたとされる。

この守山城復元模型は守山図書館に展示されており、郷土史家楠氏が作成

そんなお話をしながら、中日文化センターの講座でこれらの城をめぐりましたが、これ、個人ツアーでも回れますのでぜひご用命ください。歩くのはかなりきついですがクルマで動けば半日コースです。

お問い合わせはdaysmizuno@outlook.com または080-8716-0944

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