信秀の痕跡を探って、信長元服の古渡城址界隈を歩く

ツアーのご報告
東別院の中にある古渡城址碑

25年5月10日に鳴海中日文化センターの講座として「信秀の痕跡を探って、信長元服の古渡城址界隈を歩く」と題して、地下鉄東別院駅から金山駅までを歩きました。

織田信長の父である信秀は、天文7年(1538)年に那古野今川氏の拠点柳之丸(那古野城)を占拠し、那古野今川竹王丸を追い出して、愛知郡に影響力を強めました。というのも熱田を含む愛知郡は尾張の中心部でありながら長い間、将軍直轄(奉公衆)の那古野今川氏が治めており、尾張守護斯波氏や守護代織田氏から独立したエリアでした。そこに対して信秀が影響力を強めたのです。

この梵鐘は信長お抱えの水野太郎左衛門作

那古野城は熱田台地(名古屋市中区から熱田区あたり)の北端にあり、愛知郡全体に影響力を及ぼしにくい。そこで信秀が築いたのが古渡城です。現在は浄土真宗大谷派東別院からメーテレ辺りまでの広い敷地がその場所です。ここには守護所の清須から鳴海・三河方面までをつなぐメインストリートの鎌倉街道が東西に通り、熱田と那古野を結ぶ南北の道(江戸時代の本町通り)が交差し、精進川(新堀川)で熱田との船による交通も確保されている場所でした。愛知郡に影響を及ぼすには最も良い位置と言えるでしょう。

空襲で焼かれたことで、江戸時代の痕跡はやはり想像するしかない

行程はこの古渡城の立地を今も残る地形から体感し、信長が桶狭間のあと千本の松を寄進した日置神社、本町通りを確認しつつ江戸期の大木戸跡を見て、鎌倉街道との交差点の山王社へ。万松寺を作る前の菩提寺と思われる洞仙寺、城下の傳昌寺で信秀の痕跡を確認。そして信秀の古渡進出により影響を受けたと思われる尾頭(鬼頭)氏の痕跡を求め、為朝鎧塚のある闇之森八幡社(市部城跡)、那古野でおそらく最も古い元興寺へ。

尾頭氏がなぜ鬼頭氏になったのかというあたりの中世の物語は、おもしろいですよ。源為朝は頼朝の叔父にあたり、その忘れ形見が尾頭義次でこの人が鬼頭氏の先祖となるようです。信秀の時代には鬼頭義直という人がいて、家臣に加わったとされています。義直のひ孫は江戸時代に帰農して、海を埋め立てた新田開発(2万3000石に及ぶ)を大規模に行っています。鬼頭って名字は名古屋界隈では普通に見られますけど、それはこういう歴史があるため。全国的には珍しい名字のようです。

為朝の鎧が埋まっているとされる鎧塚。為朝伝説は全国にあり、これもその一つだろう
鬼頭氏子孫が明治16年に建てた由緒の碑

その鬼頭氏の尾頭城がどこにあったか(住吉神社の一帯ヵ)は結局わからないのですが、その影響下にあったと思われる金山神社(金山という地名はここからついている)はその名の通り、熱田鍛冶の守り神。熱田は貿易だけではなく、金属加工(つまりは武器製造)も担っていたので、信秀は古渡城を作って鬼頭氏を配下につけ、熱田の港湾利益から武器製造までを手中に収めたわけですね。それを那古野城で育ちながら見ていたのが信長ということになります。そして古渡城で元服した。

岡谷製鋼は昭和12年にできているようですが、左の神社名の碑は同年に岡谷惣助が建てたもの

というあたりの事情をお話しながら約二時間半、5キロほどを歩きました。ビル街を歩いていても幼い信長が見ていた風景がなんとなく想像できる、それが現地歩きの楽しさです。ということでこうした現地歩きを体験してみたい方は daysmizuno@gmail.com までお問い合わせください。若き信長関連のいろいろなところをご案内できます。

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