第163回 キムタク信長映画『THE LEGEND & BUTTERFLY』では濃姫がずっと正室のようですが、本当の正室は生駒家の娘だと思います

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2022年6月25日

久昌寺の生駒家の墓所には一番右側に久菴桂昌大禅定尼の墓が残る

昨年から話があった東映70周年記念作品『THE LEGEND & BUTTERFLY』(2023年1月27日公開)の情報がやっと解禁されました。制作費20億円というこの映画ですが、ちょっと東映のサイトから引用しますと

{レジェンドは戦国武将・織田信長のこと、そしてバタフライは、「帰蝶」という呼び名があったと言われる信長の正室・濃姫のこと。この二人の愛の物語でございます。出会うはずのなかった二人が恋に落ちるという、ボーイミーツガールの側面があり、政略結婚で夫婦となる、もどかしさと、切なさを描く夫婦愛を描く物語でもあります。そして圧倒的な映像美で描く、壮大な歴史ドラマでもあります。}

というものです。信長=木村拓哉、濃姫=綾瀬はるかということでなんとなく想像できてしまうのですが(苦笑)。ということでまあ、ネット上では結構辛辣なコメントもあるようです。ドラマとしてはどのようなお話であってもかまいませんが、では史実的には、実際の所どうなのでしょうか。ちょっと考えてみます。

中日スポーツより ©2023「THE LEGEND & BUTTERFLY」製作委員会

濃姫といわれる斎藤道三の娘が信長に嫁いできたのは1949(天文18)年と思われます。信長の父・信秀が病に倒れ、斎藤・今川両方面との戦いが無理になって、美濃の斎藤道三とは和睦しました。その証として、いわば人質としてやってきた美濃の姫=濃姫ということで、実際の名前はわかっていません。当時の女性の名前が残ることはほぼありませんから仕方ないところ。濃姫は信長に嫁ぐ前に美濃守護の一族土岐頼純など、一人あるいは二人に嫁いだ経験があると言われています。つまり道三にとっては都合のいい人質用の人材だったとも考えられます。信長のところに来てからも、7年間、子はなく、記録は何も残っていません。

重要なのは1556(弘治2)年に道三が息子の義龍に討たれたことで、そのあと信長と義龍は対立しましたから、この時点で人質の濃姫は用無しとなり、信長に殺されてもおかしくはありません。とはいえ、それなりの期間を正室としての地位にあったこともあり、私は美濃へ返されたのではないかと考えます。そして信長はこののち、新たに正妻を娶っていると思われます。

取り壊し工事が始まった頃の久昌寺最後の姿

その正妻は誰かというと、生駒家3代当主・生駒家宗の娘(戒名・久菴桂昌大禅定尼=きゅうあんけいしょうだいぜんじょうに)です。先日、この人の菩提寺である久昌寺(愛知県江南市)が老朽化によって取り壊されることになり、全国的なニュースになりました。生駒家19代当主の生駒英夫さんによると、久昌寺は寺格が高いため住職も檀家もおらず、現代では寺院経営が難しいため取り壊さざるをえないとのこと。残念ですがいたしかたなし。跡地は市民公園になるそうです。

この生駒家宗の娘に関しては、「吉乃」という名前が知れ渡っていますが、これは偽書の『武功夜話』によって広まったもので、生駒家にも正式な名前は伝わっていません。生駒英夫さんによれば、昭和44年頃に生駒家17代当主の秋彦氏に対し「生駒家を扱う小説を書きたい」と申し出があって承諾したことがあり、それを申し出たのが『武功夜話』の現代語訳というものを書いた吉田龍雲氏だったとのこと。なので、英夫さんは『武功夜話』は小説である、と断言されます。

武功夜話の偽書問題はいずれまた詳細に書いてみたい

ところが、『武功夜話』が発表された時に、伊勢湾台風で壊れた倉から出てきた古文書であると宣伝されたことで、学者を含む多くの人たちがこれに飛びついて、新たな史実がわかった、などというとんでもないことになってしまいました。この時代の研究が進んだ昨今では、その内容の荒唐無稽さに、今や研究者の誰もが古文書などとは思っていませんが、まだまだこれが歴史の真実と信じている方は、地元江南市を中心にたくさんいらっしゃいます。実に困ったことです。そして、ここで創作された生駒氏の娘「吉乃」という名は今では独り歩きして、ゲームや小説、武将隊などで使われ、今では多くの人が正室が濃姫で側室が吉乃だったと思っています。

生駒氏の娘が信長の子の嫡男信忠、次男信雄、そして徳川家康の嫡男に嫁いだ娘の三人を生んだことはほぼ間違いなさそうです。中でも注目すべきは、信忠が嫡男であることでしょう。嫡男となると、正妻の子供であることが必要です。この一点を見ても、生駒氏の娘が正室でいいでしょうし、また大事な同盟者の家康の嫡男にこの人が生んだ娘(徳姫という名が知られている)を嫁がせたあたりでも、正室としていいのではと考えます。何より生駒家には正室と伝わっているそうです。

となると、やはり濃姫は離縁されて美濃に返されたのではないでしょうか。江戸時代の様々な系図では、信忠の母親が不明とされることが多いのですが、それは濃姫が正室なので、その子でないとおかしいと当時思われたからでしょう。しかし、濃姫が生んではいないので、苦し紛れに不明ということになってしまったのでは、と推察します。

生駒屋敷のあと。尾張の生駒氏は尾張徳川藩に仕えて今に続いている

そこで、時系列を考えてみますと、以下のようになります。

・1556年4月に道三が討たれ、美濃・斎藤義龍が敵対したので、濃姫を美濃へ返した
・道三が死んだことで、岩倉の織田伊勢守家が斎藤義龍と組んで、信長に反旗を翻した
・それを受けて尾張東部でも、弟の信勝を奉じる反信長勢力(林秀貞など)が台頭
・信長はそれに対抗して、犬山の従兄弟織田信清を味方に留めるため、その配下だった生駒氏の娘を妻にして、同盟関係を強めた
・この年8月に、林美作守・柴田勝家ら反信長勢と稲生で戦い、信長が勝利する
・1557年になると、信忠(茶筅丸)誕生(56年4月以降に生駒の娘が妊娠)

この流れを見ると、正室が濃姫から生駒の娘に変わったことが合理的に思えるはずです。生駒の娘は、三人目の徳姫を生んだあとで亡くなり、信長はそれ以降、数十人の子供をあちこちで作りまくっており、側室はたくさんいたようですが、正妻と呼べる人はいなかったようです。その意味では、信長が本当に愛したのは生駒の娘、ただ一人だったのかもしれません。しかしまあ来年の映画によって、濃姫が正室として信長に従ってずっと生きていたと思いこむ人が増えるのでしょうね。であればとにかく、「吉乃と言う名が偽書による創作にすぎない」ということだけでも、皆さんはぜひとも頭の隅にお留めください。

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