2016年10月21日

左からグレン氏、梶野氏、井沢氏、織田氏、河村市長、伊澤氏、船橋氏
逆境の中、清洲から桶狭間へ戦いに向かう信長は、河村名古屋市長にとっては「人生大逆転」の師匠のようで、その思い入れは並々ならず、この連載でもご紹介したように二度も再現劇を実現させているほど。そして今回は前々からやりたいと言っていた、桶狭間への行軍路を観光街道として整備しようというお話が、いよいよ実現に向けて動き出しました。
そこで10月17日に行われたのが、名古屋市武将観光情報発信事業「桶狭間の戦い 織田信長観光街道(仮称)事業」観光ルート検討会です。信長が通った可能性のある街道を選定し、史跡や観光名所を加えて観光ルートを作ろうというもの。
検討会に参加した有識者は、作家の井沢元彦氏、桶狭間古戦場保存会会長の梶野泉氏、DJのクリス・グレン氏、郷土史家の舟橋武志氏、そして今回は柏原藩織田家十九代当主の織田信孝氏、そして河村市長。コーディネーターは名古屋学院大学現代社会学部教授の井澤知旦氏です。織田信孝氏は最近、メディアによく登場されるようになりました。柏原藩織田家は信長の次男信雄の系統ですね。

榎白山神社で説明を聞く一行
一行はバスに乗り現地視察として、まず美濃街道沿い、西区押切の榎白山神社へ。私の本でも書きましたが、信長が最初に戦勝祈願に立ち寄った神社とされ、戦いの後には太刀を奉納したという伝承があるところです。五年前にここの宮司なられた方の話では、文書や太刀のような物的な証拠は何もないとのこと。伝承も、そのもとになるものが何かはわからないとのこと。うーん。

日置神社では氏子の方からも熱い説明が
次に本町通り、中区橘の日置神社へ。こちらでも熱田神宮に入る前に祈願し、兵を集めたとも。そして戦いの後には千本の松を信長が奉納し植えられたという話があります。宮司からの説明ではやはり物的な証拠は何もないようですが、境内にある明治30年の碑にそのことが書かれ、明治29年までは松の古木が残っていたという記載もあります。そしてなんと、その古木と思しき古株が保存されており、それを見せていただけました。

信長が植えた松の枯木とされるもの
見学の後は、市役所に戻って検討会が行われました。事務局の観光文化局観光高級部観光推進室から街道のタイトル・キャッチコピー案が提出されました。それが「信長行路(のぶながこうろ)~桶狭間ノ戦ヲ行ク 人生大逆転街道~」というもの。これに対して有識者からは、「すぐわかるタイトルにできないか」「外国人向けに英語にしやすいほうが」「カタカナはよろしくないのでは」などの意見が出され、織田氏から「行路は攻路がいいのでは」という声も上がり、結局「信長攻路(のぶながこうろ)~桶狭間の戦い 人生大逆転街道~ NOBUNAGA’s VICTORY ROAD」ということに。
また街道やスポットに置く観光銘板案も事務局から二案提出されましたが、これに関しては公募もいいのではないか、モバイル対応やゆるキャラも必要ではないかといった意見が出て、検討を続けることになりました。二ヶ月後の12月にはこの街道の関連イベントも計画されており、それとの時間的問題もありそうです。

自由な討論形式で検討がなされました
休憩を挟んで事務局からルートマップ案が出されました。清洲からは3つのルートが考えられます。美濃街道、鎌倉街道、小田井から稲生を下るルートです。それぞれを木瓜道、揚羽道、永楽道と銘打ち、コースが示されましたが、鎌倉街道の揚羽道は鎌倉街道からずれているなどの指摘も。今回、メインルートはやはり榎白山神社のある美濃街道となりそうです。熱田神宮から先、善照寺砦へは2ルート、善照寺砦から桶狭間までは3ルートが示され、意見が色々出ました。
ルート途中の観光立ち寄りスポットも、75もの場所が提案されました。中にはテレビ塔やアスナル金山といった商業施設も入っていますが、これはこれでまあ悪くないと思います。ただ私としては、コースもスポットも信長公記の記載をもうちょっと正確に反映したほうがいいのでは、という感想を持ちました。信長軍は熱田からは上の道(天白川上流)を通ったし、善照寺砦から中島砦へ移動し、そこから桶狭間へ向かったことは間違いないのですから。そのあたりの論議が深まらなかったのはちょっと残念に思いました。

今回の検討会を経たことで、近々にこの事業が正式に発表されると思います。いろいろ意見はありますが、信長というコンテンツを用いたナゴヤの観光が盛り上がるのは大いに結構です。名古屋城の木造再建、そして信長観光街道の設定など、河村名古屋市長肝いりのプランは、歴史好きには悪くない話ですし、河村市長だから実現に向かっていることにも思えます。どちらも課題は山積していますが、応援したいと思っています。