これで定説は見事に否定されたなあ、と思った講演会 「定説」はいかに作られたかー関ヶ原本戦の布陣地の変遷を追うー

日々思うこと
50億円を超える費用で整備された記念館

 25年6月15日、関ヶ原古戦場記念館で行われた早稲田大学大学院生の小池絵千花女史(1996年生)による講演を聞いてきました(撮影NG)。関ヶ原合戦は専門外ですが、桶狭間と共通することが一つあってそこだけは気にしています。それは共に、「定説として明治の日本陸軍が作った説が信じられてきたこと」です。桶狭間の戦いに関しては、もはや日本陸軍説を主張する人はいません(豊明の古戦場伝説地でも、本陣場所こそ陸軍説と同じですが、全く違った説を現地ガイドの人たちは主張しています)が、関ケ原ではまだ陸軍説が定説のままです。

 その定説(特に各武将の布陣位置)がこれまで如何に語られてきたかを「できるだけたくさん」の史料を読んで明らかにしてみたというのがこの日の発表でした。なので、史料批判はせずに、ある史料にはこう書いてあるので、それを読んだ人たちはこう思っただろう、という様々な説の時代的な流れを追ったものです。これは小池女史が書いた2020~23年度科学研究費補助金研究(A)研究成果報告書『戦国軍記・合戦図の史料学的研究』という論文がベースのようです。

 たとえば家康の本陣とされる「桃配山」はどんな史料に書いてあるのか。初出は1663年の『慶長軍記』で「桃クハリト云所」と書かれており、「桃配山」ではない。きちんと「桃配山」と書かれているのは1706年の『赤坂安楽寺旧記』が初出とのこと。戦いから100年以上経ってから場所・地名がはっきりしてきた、というのも何だかなあと思いますが。家康勢・田中吉政の「甲斐墓」の初出は郷土史家神谷道一の『関原合戦図志』で、なんと明治25年(1892)のこと。戦いから300年も経ってます。

 石田三成の「笹尾山」に至っては1785年の『関ヶ原御合戦備書』に「篠尾と云処」とあり、篠尾が笹尾のことであるならこれが初出で、江戸時代の多くの軍記物には、本陣は「天満山」と書かれていて笹尾山は出てこないとのこと。他の有名武将たちの本陣も現在信じられている場所の文書初出は1700年以降ということで、その調査結果は以下の6つになるようです(講演配布資料から引用)。

布陣情報の変遷まとめ
①慶長5年に書かれた古文書・古記録には戦場全体の様子や具体的な地名はほぼ記されていない
②北国街道(小関村) と中山道(石原峠) を押さえて南北に展開する西軍と、それに対応して東側に布陣する東軍…という布陣の大まかな構図は『内府公軍記』(~1607)時点で成立→この構図がその後も引き継がれる
③幕府の史誌編纂に伴う覚書の作成と収集 (1640年代~1650年代)
④軍学者の手になる関ヶ原合戦軍記の隆盛 (1660年代~)
⑤-1考証要素の強い軍記の作成 (1700年代~)
⑤-2 地元の情報に基づいて書かれたローカルな軍記の作成
⇒以上の情報は江戸時代を通して統合されず、江戸時代までは布陣情報に「定説」と呼べるような統一見解は無かった

 ということで、江戸時代には「布陣の定説はない」事が判明。とはいえ定説がないからと言って「関ヶ原合戦はなかった」となるわけではないようで、小池女史は昨今の新説「合戦は山中であった」には反対ということでした。まあ、新説賛成の人が関ヶ原古戦場記念館で話ができるわけもないので当然ですが。

この大谷刑部の本陣があったとされる山中(地名)のあたりが主戦場というのが新説です

 さてそこで次なる問題は、明治以降に定説がどう作られていったかです。

 「明治初期の退役軍人曽我祐準という人が明治19年(1886)に戦史研究を始め、21年に『関ケ原戦史略』を完成させた。時を同じくして郷土史家、可児の久々利村・千村家(尾張徳川家家臣)の家老の家の出である神谷道一も研究を始め、現地調査、陸軍や岐阜県知事との協力などで各武将の陣の場所を推定・特定し、25年に『関原合戦図志』を刊行。翌26年には陸軍が『日本戦史 関原役』を刊行。このときにいわゆる定説が出来上がった。」

 というわけで、なんのことはない、江戸期の様々な文献を元に、現地で場所はここだろうと決めてしまったのは郷土史家で、それを陸軍が採用してしまったという話です。しかもこれらは一般書籍となったので多くの人に読まれ、読んだ人は現地に行きたくなるので観光ガイド本が次々に刊行され、碑が建ち、合戦300年イベントが行われ…と現在に至っているわけです。しかも昭和6年には文部省が国の史跡に指定してしまい、これにて押しも押されぬ「定説」となったという次第。以前、笹尾山を発掘しても何も出てこなかったという話ですが、さもありなんということで。

 本当はどうなの?ということで同時代史料(一次史料)はないのか、といえば、桶狭間と違って膨大にあります。それゆえ現在の喧々諤々の論戦となっているわけで、それは史料のない桶狭間とは違うところ。

 で、一次史料ではない「軍記物」で同時代に書かれているのが、『信長公記』作者の太田牛一による『内府公軍記』(~1607年、戦いの7年後に成立)なわけです。江戸時代の軍記物は基本的にこの『内府公軍記』を参照・引用しているようで、そこには家康の陣は「野上(関ヶ原の東側)と関ヶ原の間」と書かれているとのこと。桃配山のあたりには違いないですが、『信長公記』同様、曖昧な書き方なのが罪作り。結局、関ヶ原も桶狭間も元ネタは牛一かい、というオチになりますね。この『内府公軍記』は名古屋市蓬左文庫の『太田和泉守記 全』にあるそうで、それを初めて翻刻したのが小池女史で、その作業に夢中になって大学院を留年してしまったとのこと(苦笑)。

 今の布陣図は史実ではなく郷土史家の研究で作られたものということがここまでわかっているのに、古戦場記念館にはさも史実のように展示されているのは何だかなあ、と思ってしまうのですが、調べてみると昨年(2024年)2月には古戦場記念館で「関ケ原合戦に参戦した武将の陣跡を推定して現在の布陣図の基を作った明治期の郷土史家、神谷道一の取り組みや功績を紹介する展示」が開催されていました。中日新聞の記事を引用すると…

展示では福島正則ら東軍第一陣の武将たちの陣跡特定までの足取りを例に、可児市や県の資料を用いて神谷の功績を紹介。記念館学芸係の林良樹さんは「神谷は資料だけでなく、現地での聞き取り調査とも照らし合わせていた」と話す。パネルでは松尾村(現関ケ原町松尾)の村長からも聞き取りをし、福島の陣跡が井上神社前であると推定した過程が紹介されている。調査結果に基づき、何もなかった関ケ原に次々と木製の標柱が立っていった。神谷の調査は観光資源の一つになり、昭和初期のガイドパンフレット「関原古戦場及名所之図」には布陣図が描かれている。林さんは「神谷の調査は観光業のみならず後の研究にも寄与している。通常の歴史展とは違う切り口の展示を見てもらいたい」と話している。

 ということで、自己否定はできない古戦場記念館も結構苦しい立場にいらっしゃるようで。いずれにしても桶狭間同様、関ヶ原も定説はすでに覆ってます。とはいえ、来客に真相はわからないともいえない、新説に乗っかっちゃうわけにも行かないというのが「観光」を行っている地元の難しいところであるなあと。こうやって考えると、日本陸軍は本当に罪作りな組織だなあと思います。歴史のでっち上げを平気でやっているわけで。日本陸軍のように「これが正しい歴史だ」という人がいたら、眉に唾をつけるべきでしょう。我々の主張する桶狭間の新説もあくまで新説であって、これが正しいと主張しているわけではありません。でも、それだと弱いのだろうなあと思う昨今。声高にこれが真説だと主張しまくらないと埋没しちゃうのかもしれません。そうか、そうかも。

※今回使用した写真は過去(ここ10年以内)に撮影したものですので、現在とは若干異なっているかもしれません。

※2020年に関ヶ原古戦場記念館がオープンした時の取材記事は以下

 BATTLE OF SEKIGAHARA、ガイド・オブ・岐阜関ヶ原古戦場記念館

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