2012年12月1日
若き信長の戦いで、大変重要なのにほとんど知られていないのが村木の戦いです。この戦いで信長は、尾張領土である知多半島に侵攻してきた今川勢に対し、「鉄砲を連射」して勝利を収めました。鉄砲連射というと長篠の戦いが有名ですが、それより21年も前の1554年に、すでに信長は鉄砲の連射を行なっていたのです(もちろん組織的にではありませんが)。
さて、まずは当時の情勢から。信長と同盟を組んでいたのが、知多半島は緒川(現在の知多郡東浦町)の水野信元。松平元康(徳川家康)の叔父にあたる人物です。信元の居城である知多半島の東側にある緒川城北2キロに、衣浦湾を越えて今川軍が侵攻し、出島型の砦を築きました。
この動きに呼応して、知多半島の西側にあった寺本城(知多市八幡字堀之内)が今川方へ寝返りました。半島の東西に敵の拠点ができて、その南にいる水野信元が信長方と寸断されることになったのです。

信長はすぐ救援に向かうことにしましたが、那古野城を空けると敵対していた清須勢に攻められるかもしれないと、義父の美濃・斎藤道三に那古野城の守りを依頼。1000人の兵が美濃からやってきて守りを固めました。しかし道三が裏切れば那古野城は乗っ取られてしまいます。危険な賭けでもありました。
信長は1月21日に熱田に兵を集め、翌22日朝、ひどい強風を嫌がる船頭を一喝して船を出させ、軍勢は風に乗って一気に海を渡り、東海市のあたりへ上陸。寺本城を威嚇して、知多半島を横断し、24日の夜明けに緒川城から出撃。天王山(知多郡東浦町森岡天王西)に本陣を置き、信長が育て上げた精鋭部隊と、叔父信光の軍、そして水野信元の軍で、村木砦総攻撃を開始しました。
南側の大堀を信長の精鋭軍が攻め、死傷者を数多く出しながら猛攻。信長はというと、敵の狭間をめがけて、鉄砲を打ちかけ反撃を封じようとしました。この時信長は、取っ替え引っ替え鉄砲を打つことを、すでに実戦で実行しているのです。

夜明けから始めた攻撃ですが、夕方になってやっと敵を降伏させることに成功。しかし信長の育て上げた親衛隊というべき精鋭軍の多くが戦死し、信長はその亡骸を見ながら「お前も、お前も死んだのか」と涙を流しました。後世では魔王などと呼ばれる信長ですが、20歳のこの頃はまだ、感受性の強い若者だったのです。
この村木砦跡には案内看板も出ていますので、様々な戦いの痕跡をめぐって、辺りを歩いてみるといいでしょう。なお、砦跡の東側は、現在田畑になっていますが、当時は一面が海(衣浦湾)だったことをお忘れなく。
