2017年10月28日

御殿があったと思われる発掘場所。展望が素晴らしい位置にある
岐阜県可児市兼山。1656年までは金山と書かれたようです。木曽川の上流にあって、人道支援の杉原千畝で有名な八百津町のすぐ下流という位置にあり、2005年に可児市に編入されるまでは日本で二番目に小さい町、可児郡兼山町でした。そんな小さな町ですが戦国時代には、この町の位置は美濃にとって、飛騨や信州に対する抑えの要地であり、木曽川水運(特に木材)のたいへん重要な湊町でした。そのため、天正年間までには現在の古城山(標高277m、比高160m)に鳥峰城も築かれました。

城址からは木曽川や町並みを見下ろすことが出来る
ここには当初、斎藤道三と関係があると言われる斉藤大納言正義がおり、その死後はおそらく長井道利が入っていたのではと考えられています。ただそれを裏付ける資料はありません。長井隼人佐道利は斎藤道三の子供(庶子)とか弟とか言われ、一般には義龍、龍興に仕えていたとされますが、どうも独立勢力であったように思えます。永禄8年4月に金山の南、御嵩町顔戸にある八幡社の棟札に名前がでてきますので、その頃までは長井がこのあたりに勢力を張っていたのではと考えられ、永禄8年8月の堂洞合戦の折に、関の城主として参戦してきますが、それはこの鳥峰城を追われていたからかもしれません。このあたりの詳細は「現代語訳 信長公記天理本 首巻」を読んでいただければと思います。

広い本丸部分。写真奥に天守があった(※現在では天守はここではないとされる)
ということで、正確には不明なのですが、永禄8年(1565年)4月以降に信長は鳥峰城を落として、重臣の森可成を入れています。そして鳥峰城の名を変え金山城としたのです。2016年8月のこの連載で、堂洞合戦のあとに金山を落としたと書きましたが、このように、どうもそれ以前と考えるべきだと思うようになりました。金山へは犬山から木曽川を渡ることなく陸路進めますから、美濃と言えども攻めやすかったのでしょう。

発掘現場。写真奥が石垣の際
森可成は本能寺で死んだ森蘭丸(乱丸)の父親で、永禄8年に生まれた蘭丸は金山城が出生の地では、とされています。信長は本能寺の変の少し前、天正10年3月9日、甲斐遠征の途中でこの城に泊まっています。金山城主は可成の次男森長可、六男忠政と移り、関ケ原合戦の翌年、1601年に廃城とされ、現在に至っています。

北側から見た石垣。手前に転がるのは崩れた石
廃城時の城主は犬山城主の石川光吉(貞清)で、その時、金山城の天守は解体され、部材は犬山まで木曽川を流されて、犬山城へ移築されたという話が残っています。ただこれにははっきりした資料がありません。以前にも書いたと思いますが、現犬山城天守は金山城天守を移築した上で改築されて現在の姿になったのではないか、という疑問ですね。
犬山城は二層二階の大入母屋の上に望楼を乗せた形となっていて、1609年築の名古屋城(層塔型)より古い様式です。解体修理時の調査で望楼部分は1600年以降に増築されたものと判明していおり、大入母屋部分は1576年築の丸岡城よりは構造的に新しく、用材から見ると望楼より数10年以上前のものです。また石垣は1600年頃の技法と考えられるとのことです。これらを統合すると、1576年以降に建てられた金山城を1601年に壊して、犬山城として新しい石垣の上に再建され、望楼部分が増築されたと考えると辻褄が合いそうです。

犬山城の写真の望楼部分を隠してみた。金山城はこんな姿かも
今回、可児市教育委員会によって、金山城天守部分の発掘調査が行われ、説明会が10月21日にありました。天守跡には昭和29年に神社が建てられていましたが、今回その社殿を移転させて発掘調査が行われたのです。その結果、初期段階では北側の岩盤の上に石垣を組み、そこへ半地下構造の天守と思われる建物が建てられ、南側の御殿との間の敷石があったことが判明しました。その後に盛り土などがされ、建物は南側に拡張されて建て直されたであろうことも分かってきました。そして立て直された建物のサイズは、犬山城にかなり近いようです。現在、否定的な見解が多い移築説ですが、この当時は現代同様、たいへん木材が不足しており、多くの城が移築で作られていますので、可能性はかなり高いのではと思います。

出丸駐車場から本丸への登り口
ということで、山城攻めにはいい季節ですので、金山城へぜひ行ってみてください。崩されてはいますが天正期の石垣もかなり残り、城の縄張りも見事に残っています。発掘あとは残念ながら埋め戻されているはずですが。兼山の町を見下ろせる眺望も素晴らしく、山城を堪能できます。出丸部分まではクルマで上がれますので、そこから本丸までは20分ほどで楽に登れます。なお麓にある金山歴史民俗資料館は、リフォームのため来年度まで休館中です。