2015年5月9日
尾張をやっと統一したかに思えた信長に対し、反旗を翻した犬山城の織田信清。この人は信長の従兄弟で、妻は信長のおそらく妹となる人ですから、義理の兄弟でもあったわけです。
信清の父信康は信長の父信秀のすぐ下の弟で、信秀が尾張を事実上支配下においていた時代に、現在の犬山城の南1.5キロにあった木ノ下城(犬山市犬山字愛宕の愛宕神社)に入れられ、その後、現在の犬山城の位置(犬山市犬山北古券65-2)に砦を作って拠点としました。これが天文6(1537)年のこととされています。(※この話は現在否定されている。)
しかし天文13年、信康は美濃攻めで戦死。その後はまだ幼い信清が犬山城の主となりました。その後の信長の岩倉攻めの時には、信清は貴重な味方として共に戦っていますが、信長への対抗心があったのか、あるいは美濃に近いからか、斉藤龍興や東濃から進出しつつあった武田信玄と連携して信長に対抗しようとしたのでした。

さてそんな犬山城ですが、天守閣を持つこの建物が国宝であることは皆さんご承知のとおりです。天文6年に出来たとされてきたわけですが、実ははっきりしてはいません。むろん今ある天守は初めからはありません。天文6年(1537年)にはまだ瓦葺きの建物自体なかったはずです。
それから石垣ですが天文年間にはまだこんな石垣の技術はありません。1563年に出来た信長の小牧山城が画期的な石垣の城だったわけで、それより30年も前にこのような石垣は作れなかったはずです。つまり犬山城が今のような姿になったのは天正以降のことでしょう。

しかしここで謎がひとつ。この建物は美濃金山城(岐阜県可児市兼山)を解体して、その部材を木曽川で流して運び、犬山城として移築したものとの伝承があるのです。ただ昭和36年から40年の間に行われた解体修理の調査の結果では、痕跡が見当たらないと移築は否定されました。
しかし濃尾歴史文化研究所を主宰される横山住雄先生によれば、今の石垣の上に乗っている天守は二層になっており、下の層は使用されているカンナの違いによって室町時代の建築物と考えられるとのこと。
つまり比較的新しい石垣にそれより古い建物が乗り、更に上層階の天守閣が慶長年間(1596~1615年)以降に増築されているということになるそうです。このことから横山先生は下の層の建物はやはり金山城の移築ではないかと推測されています。

また犬山市の広報誌には関ヶ原合戦後に天守が作られ、江戸時代前期に成瀬家によって増築がなされたという説も紹介されています。現在の天守閣は謎の多い建物で決定的な話はありませんが、いずれにしても信長が攻めた頃の犬山城が現在の形でなかったことは確かなので、そこはお間違えなきよう。
名古屋城の付家老成瀬家が入って以降の犬山城の歴史は、ぜひ現地の案内でご確認ください。国宝なのに気軽に誰でも中へ入れてしまうのは、保護の観点からはちょっとどうかと思ったりしますが、ありがたいこと。油を撒かれないことを願います。