第82回 信長の美濃攻め、後半部分の年表です

2016年10月4日

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岐阜市制作のピンバッチ


前回に引き続き、信長の美濃攻め年表後半部分です。

信長は小牧山城を作り、犬山、美濃攻略を一気に進めたと考える人が多いようですが、実は美濃攻略が第一義目的ではく、小牧に理想的な尾張の首都を作って、そこをベースに国力を蓄える。そしてじっくりと周辺へ力を及ぼしながら、全国の諸勢力との関係を整えて中央を目指すという方針を定めた、と考えた方がいいように思えます。

1564年(永禄7年)信長満30歳

2月6日 竹中半兵衛・安藤守就による稲葉山城占拠
2月28日 家康、一向一揆と和議、東三河再侵攻
6月9日 信長、直江景綱へ書状を出し、上杉謙信との同盟模索
6月 苗木城(中津川市)の遠山直廉に信玄から南飛騨へ出兵命令
6月下旬 犬山方、黒田城・於久地城が投降
8月ごろ 稲葉山城が竹中半兵衛から龍興へ返される
11月7日 信長、謙信へ養子を出すことを了解
9月28日 勅使の立入宗継が下向し、初の将軍御内書を届ける
10月 美濃の高僧快川紹喜、美濃と甲斐の同盟工作を行う
12月 将軍足利義輝の御内書に対し、天下統一の返信をする

※2年の停戦中に斎藤龍興の緊張が緩んでいたのか、あるいは信長の調略なのか、信長との関係が悪くないと思われる西濃の勢力が稲葉山城を占拠してしまいました。その間に敵対していた犬山の家老衆が信長に寝返り、情勢は少しずつ信長有利へと変わっていきます。そして将軍からの御内書が届き、美濃へ侵攻するというより、畿内を目指す発想へ信長の心情は変わっていきます。

1565年(永禄8年)信長満31歳

1月頃 龍興、武田信玄と同盟
2月22日 犬山城落城
3月 家康、吉田城(豊橋市)・田原城攻略、東三河平定
5月19日 将軍義輝、謀殺される 28日足利義昭奈良脱出
7月10日 加治田城、信長へ服属 
8月5日 義昭 上杉謙信へ幕府再興依頼書を出す(信長にも?)
8月 信長、中濃鵜沼城 猿喰城を攻略
8月28日 堂洞合戦 
8月29日 加治田城撤退戦、金山城もこの頃攻略か
9月 麟の花押使用開始
11月1日 斎藤利治(道三の子)を加治田城主にし領地を与える
11月2日 秀吉の文書(坪内利定宛)の初見
11月20日 家康、上洛了承の返書を和田惟政へ出す
12月5日 細川藤孝へ義昭入洛の御内書へ承諾の返事

※このころ龍興が信玄と同盟したため、それを分断すべくついに犬山を落とし、さらに中濃地方を攻略して、信玄との間を断ち、龍興を孤立化させます。そうした上で停戦して、将軍が殺されて混乱する京へ上ることを第一に目指していた、と考えたほうがいいように思います。その際には家康の三河勢も同行する手はずだったのでしょう。

竹中半兵衛が占拠すると、岐阜城は桜の季節となります


1566年(永禄9年)満32歳

2月17日 僧籍だった義昭が還俗
3月 尾張・美濃の和睦に細川藤孝を派遣中との義昭の手紙
4月11日 朝廷へ30貫献上 馬と太刀と銭三千疋 
4月 義昭の使いである細川藤孝と和田惟政が小牧山城に逗留
4月ごろ 各務野へ出兵を試みる
4月18日 義昭から上洛の要求来る(和睦なったか) 
5月 信長娘五徳・家康長男信康が結婚
6月ごろ 信長、三介から尾張守へ名乗りを変える
7月ごろ 遠山の信玄家臣秋山が取り持ち武田と通じる
8月以前 龍興と和睦し8月上洛の決意するも龍興が裏切り断念
8月29日 義昭、畿内から若狭へ逃げる
閏8月8日 河野島で美濃勢に敗北
11月か 養女(遠山直廉の娘)を武田勝頼へ嫁し武田と同盟
11月 信忠に信玄娘を嫁がせようとする

※美濃とは小競り合いがありますが、細川藤孝が義昭からの使いとなり、信長と龍興との和平交渉が進みます。尾張守と名乗りを変えたのも上洛を睨んででしょう。龍興との和睦によって、関ヶ原を通っての上洛が可能になりますが、しかし和睦は成立せず、上洛は果たせませんでした。そのため美濃へ兵を出しましたが、河野島では敗北。なかなか思うようにいきません。しかしこうした行動を取る龍興の美濃での求心力はだんだん低下してきたようです。

翌1567年(永禄10年)、そんな龍興を見限った美濃三人衆の裏切りによって、龍興政権は一気に崩壊し、力攻めをする必要もなく信長は美濃を手に入れます。手に入ったのであればより京に近く、経済力を持つ稲葉山城を本拠にすることが合理的なのは明白です。そこで、心血を注いで作った小牧山城と小牧の町の役割は終わったとして捨てさり、稲葉山城に移って、ここを岐阜と改名したのでした。

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