第61回 信長時代の風景はどんどんなくなっています。見学はお早めに

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2015年7月16日

先日、私がやっているある歴史講座の一環で、受講者の皆さんと「村木砦の戦い」の場所をめぐる小ツアーに出かけました。

そこで驚いたのですが、久々に訪れた村木砦跡(愛知県知多郡東浦町森岡取手)の敷地内が整地され、住宅用地として分譲されていました。

村木砦は八剱神社のあたりが古戦場として案内されていますが、もう少し北のあたりも広く砦跡とされています。現在もポツポツと家が建っていますが、これまで畑だった一角に私道が通され宅地分譲されていました。

正面奥の森が八剱神社

それから村木の戦い後の処刑場跡といわれる場所へ移動しましたが、なんとそちらにも新しい家が建築されていて、すっかり様子が変わっていました。

400年以上、何もなかった場所だと思いますが、それでも宅地開発されてしまうのだなあ、とちょっと感無量です。そうしたら参加者の方からは「徳川家康が幼いころ幽閉されていた熱田の加藤家ももうなくなってますよ」との情報が。

すっかりおしゃれな分譲住宅が建ってます(※現在はこの碑も撤去されている)

後日、熱田へ行ってみると、加藤家(加藤図書助順盛屋敷跡)は残っておらず、すでに分譲されて新しい家が何軒も建っていました(名古屋市熱田区伝馬2-13)。ただこちらは少し空き地が作られていて、そこには新しい石碑と、元々あった市の案内看板が建っていました(※現在は、少し離れた公園に名古屋市の看板だけが建っている)。石碑は敷地を売却されたと思われる子孫の方が建てられたのでしょう。グーグルのストリートビューで見ますと2012年当時の様子と現在の様子が見比べられます。

このように何百年もそのままだった場所も、最近、急に様変わりしてきています。信長の時代を想像させる風景はどんどん減っています。現代は地形ですら重機によって変えられてしまいますから、歴史好きとしてはちょっと残念なところ。若き信長の軌跡を巡りたいのであれば、一刻も早く始めてください。

加藤家のあった場所に建つ真新しい石碑

さて、今回の本題は信長による犬山攻めです。日本のどこにもない石垣の小牧山城を作ってその力を見せつけることで、戦わずして小口城、黒田城を攻略した信長は、その頃出兵を控え、兵力を鍛え、温存していました。その兵力をいよいよ投入して犬山城の織田信清を攻めたのは1564年(永禄7年)とも65年(同8年)ともいわれています。

しかしこの犬山城の落城に関しては、なぜか信長公記に記載がなく、他の記録も乏しいので何年のことかはっきりしません。ただその後65年の半ばに中濃方面へ軍を進めていますのでこの頃までには犬山を落としたと思われます。

尾張で最後まで信長に対抗した従兄弟である犬山城主織田信清は、甲斐に落ちていき、犬山鉄斎と名乗って信玄の弟の御伽衆(客分)になりました。信清の妻は信長の姉でしたが、そのまま信長に引き取られました。

ある程度の戦いはあったかもしれませんが、徹底的に滅ぼしていないあたりは、親類でもあり、また犬山衆をできるだけ無傷で自軍に組み込む意図があったのでしょう。大きな戦い、大きな勝利ではなかったので信長公記も書いていないということかと思います。

なお、現在の犬山城に行っても、このあたりのことは全く紹介されていませんのであしからず。

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