第161回 GWを利用して信長の城を一気に見て回り、その心境を想像してみよう

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2022年4月29日

岐阜城から岐阜駅方面の眺望。天下を取った気分になれる

ゴールデンウィークなら、一気に若き信長の城を回ってその城での信長の心情を察してみる、などということもできそう、とこんな企画を考えてみました。勝幡城→那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城の順です。一度行ったことのある城も、もう一度行けば新たな発見があるはず。1日では流石に無理ですからクルマで2、3日かけてどうぞ。

注目ポイントはその高さ。建物の、ではなく標高です。尾張を平定して偉くなっていくうちに、段々と高いところへ拠点を移していく信長の心の内を想像しながら回ってみてください。「俺も偉くなったもんだ」と思えるかどうか(苦笑) その意味では必ず順番に回っていただきたいところです。

名鉄勝幡駅前の信秀と土田御前の像の近くには城の模型も展示してあり、城域のイメージがつかめる

ではまず勝幡城から。勝幡城は信長の祖父・信貞が拠点に定め、父・信秀が館を新築したとされます。ここは全くの平城で、周辺の海抜は現在でも1m前後。東に三宅川が流れ、その自然堤防上に築かれたと思われ、まわりを堀で囲んだだけの城です。1534年にここで生まれた信長は数えで6才までこの地で育っていますから、彼にとっての原風景は一面の田んぼと川に囲まれた低湿地帯でした。「勝幡城は素晴らしい屋敷だが湿気が多く、虫が多くて蚊柱が立っていた」という話も残っています。

まず名鉄津島線勝幡駅へ行きましょう。駅の北口には城址の概要説明や模型が置かれています。ここでまず城(と言ってもこの頃は天守などはなく、屋敷ですが)の詳細と全貌を確認してみてください。またこの駅前には、父信秀と母土田御前と赤子の信長像が建っています。この日本一幼い信長像の前で記念撮影をどうぞ。ちなみに信長の母親は岐阜県可児市の土田(どた)ではなく清洲の土田(つちだ)出身だと私は考えています。

城跡の碑(稲沢市平和町城之内105)は勝幡の町外れにあります。駅は愛西市勝幡町ですが、ここは市境をわずかに越えて稲沢市となってしまいますので、駅にあるガイドとの一体感が感じられないのはちょっと残念。城跡は日光川が切削されたときに壊されてしまい、現在は何も残っていません。日光川の川底となってしまいました。城址碑は三宅川の東側に2つありますから、必ず両方をごらんください。東城西橋西から東側の堤防を200mほど南に進んだところにある碑には、信定(信長の祖父)の城址と書かれていますが、現在の研究では、信定ではなく信貞という字が正しいとされています。

那古野城の痕跡は何もなくただこの碑が建っているだけ

次に信長が移ったのは、柳之丸と呼ばれた那古野今川氏の居城「那古野(なごや)城」です。現在の名古屋城の二の丸庭園あたりにあったとされます。最近やっと知られるようになってきましたが、この城には今川義元の弟とされる今川氏豊が、那古野今川家の養子として入っていました。那古野今川家というのは、室町幕府に使える幕府奉公衆一番衆という高い家格の家で、室町将軍家や「鎌倉殿の13人」の北条義時にもつながる家系と考えられていますが、まだまだ研究途上です。しかし、その最後の当主となった今川氏豊を、1538年に那古野城から武力で追い出したのは信長の父・信秀であったことは間違いありません。おそらくその翌年に数えで7才の信長が那古野城主となりました。

この動きは幕府内の勢力争いが背景にあり、信秀の主君筋となる斯波氏の支持派閥と那古野今川氏の支持派閥が敵対関係となったため、それまでは信秀とけっこう仲の良かった那古野今川氏豊への攻撃命令が出た、という事情のようです。ただこの結果として、信秀は那古野城を手に入れて、低地の勝幡から名古屋台地の北端にあるちょっとした高台(標高11mほど)へ居城を移したのでした。

しかし信秀はこの城には住まず、これを嫡男の信長に与えて、自身は鎌倉街道が通る交通の要衝で、貿易港の熱田湊に近い古渡(現在の名古屋市中区の東別院)に城を築いて移りました。那古野城は主要都市の熱田からはちょっと離れたところでしたから。

石垣の高さから那古野台地の高さ感がわかるだろう

信長はこのあと十数年を那古野で過ごすことになります。若き城主として、学び、体を作り、やがてこの那古野(名古屋)台地上で自身や親衛隊を鍛えたのです。そして数え13才のときの元服(式は古渡城で行われた)、また14才のときの初陣で三河大浜へ遠征したのも、すべて那古野城から出発したのでした。名古屋(那古野)こそが信長の青春の地ということになります。

そんな那古野城は今は全く跡形もありません。最高権力者であった信長の痕跡は、後の最高権力者である家康が消し去りました。1610年に那古野城の敷地に家康の命で現名古屋城が作られた時、那古野城の痕跡はきれいに消し去られてしまったようです。

ということで、名古屋城に行ったら、本丸御殿など江戸時代のものには見向きもせず、那古野城があった二の丸庭園の碑を見てから、北側へ行ってください。堀の上から北方を眺めれば、それは信長の視点に近いものと思われます。名古屋大地の縁ですからそれなりに高く、北側の見晴らしが良い。今はただ住宅が並んでいるのが見えるだけですが、当時ははるか美濃方面まで一望できたはずです。勝幡とは比較にならない高台感は満喫できたことでしょう。

そしてせっかく名古屋城の入場料を払ったのなら、西のお深井丸から西北隅櫓(清洲櫓)へぜひ行ってご覧ください。ほとんど城といっていいほどのサイズがあるこの櫓は、清洲城から移築されたもの。信長の息子である信雄の時代のものです。GW中は西南・東南隅櫓が公開されているので、そちらも見学をお忘れなく。また新しく出来た西の丸御蔵城宝館では、企画展「風薫る殿の御庭」が開催されています。

信雄の時代の清洲城新幹線のあたり。模擬城からの高さの眺望は信長の時代にはなかった

次は清洲城へ行きましょう。清洲入城までの信長は、また大変な経緯をたどります。
父信秀が不治の病に倒れたあと、対立していた今川義元は、信秀の支配下だった矢作川以西の三河(安城・西尾・知立・刈谷・豊田など)へ侵攻し占領していきます。そして1549年には、尾張国境を脅かすまでになりました。このため、守護代の織田家では老臣らが工作して、後奈良天皇から停戦の綸旨を引き出します。

今川勢は天皇の命令ゆえいったん退きました。そして侵攻した三河経営に力を入れます。そんな中で尾張では旧那古野今川家の家臣だった人々を中心に、今川になびく国衆が増え、織田一族は難しい立場となっていきます。信秀のあとを継ぐはずの信長はそうした風潮に反発し、あくまで今川との戦いを主張し、数えで19才の信長は実際にそれまでに育てた親衛隊を使って赤塚の戦いなどを引き起こしました。天皇の和平協定を破る「おおうつけ」です。そこから信長は、尾張国内の親今川勢力との戦いを始めます。その中には実の弟の信勝も含まれていました。

清洲城は守護所ですから、守護の斯波義統がいましたが、守護代織田大和守やその重臣坂井大全らはどうやら今川派だったようで、1554年には反今川だった守護の斯波義統をクーデターにより殺してしまいました。逃げてきた義統の子義銀を保護した信長は、大義を得て清洲城を攻めます。そして1555年、数えで22才の信長はついに清洲城を手に入れますが、城には義銀を入れ、自身は北櫓に入りました。信秀や信長は下剋上で尾張を手に入れたように思われていますが、実はこういう正統な手順、大義のもとに軍事行動を起こしていたのです。その結果として、利権や領地をたくさん手に入れてはいますが。

信長の時代はこんな感じだったのかもしれない

信長の時代の清洲城は残念ながらJRが、つまり新幹線がぶち壊しました。まさに今、新幹線の通っているところが信長の時代の城であり、また五条川西側の新幹線の通っているところは、清州会議が行われた信雄の時代の清洲城です。とはいえ現在、立派な模擬天守が建っているあたりが信長の時代の守護所があった場所と考えられています。もちろん若き信長の時代にはこんな天守はありませんが、信長は北櫓にいたというので、それなりに少しは高い建物があって、多少見晴らしはよかったのでしょう。

清洲は那古野より低く(標高は5mほど)、信長的には満足できなかったのではないでしょうか。清洲は当時の尾張最大都市であり、城域は広大で、川と堀に囲まれた防御に優れた要害の地でしたから、信長は数え30才までこの城にいて、1560年の桶狭間の戦いもここから出陣しました。

現在の清洲城に信長時代の痕跡はありませんが、模擬城の中には様々な展示があって、信長時代が学べます。また模擬天守最上階からは尾張全域が見渡せます。ただ信長の北櫓はこれほどの高さはなかったと思われますので、これが信長の視点だとは思わないでいただきたいところです。

小牧山からは敵の稲葉山城がはっきり見える。敵からもよく見えるようにしていたということでもある

尾張に残った敵対勢力(弟の信勝や岩倉織田伊勢守家)を倒した上で、桶狭間の戦いで父の代からの宿敵だった今川義元本人を討ち取った信長は、寝返った従兄弟の犬山織田信清、義理父の斎藤道三を殺した美濃斎藤義龍らを睨みつつ、京へ登って将軍を補佐しようと考えました。しかし、上洛の道を確保するためには斎藤義龍がどうにも邪魔ですが、簡単には倒せません。そんな情勢の中で信長は、1563年、数え30歳を機に低地の清洲を離れて高台に自らの城を築くことを考えました。それこそが小牧山城です。

台地上にぽつんと存在する標高86mの小牧山山頂に建てられた小牧山城は、昔は犬山や美濃を攻めるための砦とされてきましたが、ここ10年の発掘調査で、巨大な石垣の城であることがわかってきました。また城下町も整備され、住人を引っ越しさせる清洲越しが行われたようで、これは信長による尾張の新首都建設計画ではなかったかと私は思っています。京から人を呼んでも恥ずかしくない自らの理想的な拠点を、他国を攻める必要のない豊かな尾張に作り、そこを本拠として将軍を補佐する、それが30才の信長の人生指針「天下布武」だったのではないでしょうか。

復元され、公開された石垣(写真は小牧市提供)

ということで、小牧山城へ登ってみてください。尾張から美濃までしっかり見渡せるそのバードビューからは「俺も偉くなったものだ」という信長の自信がわかると思います。発掘された石垣は、整備されて4月から一部が公開されていますからお見逃しなく。また麓にある「れきしるこまき」では、小牧山城について楽しく学ぶことが出来ますから、必ずご訪問ください。
こちらの発掘調査では、小牧山城が意図的に壊されたのでは、と思われる痕跡がみつかっています。小牧山城は小牧長久手の戦いにおける本陣で、江戸時代には家康の聖地として立入禁止となっていました。ここでも、家康の手によって信長の痕跡が消されたのではないかという気がしてなりません。

山頂には信長時代の石垣が見事に残っている。樹木が切られて見やすくなった

さて最後は岐阜城です。信長は斎藤龍興を倒して1567年、数え34才でここへ移りました。長年に渡る裾野の発掘調査で、信長の居館跡や庭園、人工の滝などがみつかっています。残念ながら、まだそれらの全貌を見ることは出来ませんが、このあと10年のうちに整備され公開の予定です。発掘調査は現在、山頂部に移っており、道三時代の石垣や信長時代の石垣がみつかっています。それらの一部は、今も見ることが出来ます。

岐阜城へはロープウェーで楽に上がるのもいいですが、自力で登ってみると毎日上り下りしていたという信長たちの健脚が実感できるでしょう。登るのが厳しいようであれば、行きはロープウェイ、帰りは自力で下山をしてみると岐阜城の規模感が実感できます。

何より今、岐阜城は山頂部の樹木を伐採して信長の時代の「見せる城」を再現しようとしています。これは好感が持てるところ。現在ある岐阜城模擬天守は、当然ながら信長の時代を再現してはいませんが、石垣などと含めたその雰囲気は、樹木が切られたことによって魅力が倍増しています。それを見るためにも、ぜひおでかけください。

名古屋城同様に古いコンクリート製の岐阜城は、那古野城とは違って耐震加工をして残される

この標高329mの金華山に建つ岐阜城から下界を見下ろすと、これはもう天下(この場合の天下は京都や畿内のことではなくまさに全国=天下)を取った気分が味わえます。小牧山城が普通のビルの屋上なら、こちらは超高層ビル。小牧山城で天下(畿内)を治めるつもりだった信長は、岐阜城を奪ってこの眺望を味わってしまったことで、それ以上の野望を抱くようになったのではないでしょうか。京に住むことなく、ずっと岐阜城に住んだあたりの信長の心情は、岐阜城に登るとわかる気がします。

ということで、ゴールデンウィークには信長の視点を思いながら、ぜひ一気に4つの城巡りをしてみてください。そしてもし、お時間がある方は5つ目の城、安土城へも足を延ばしてみてください。4つの城を巡ってみた私は、安土城に関してはなんかちょっと違うな、この城は何なのだろう、という感覚になりました。皆さんはどう思われることでしょうか。

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