大浜(碧南市)は信長初陣の地

考察あれこれ

大浜の地元民に聞いても、ほとんど知られていないようですが、大浜が信長の初陣後であることはほぼ間違いないでしょう。『信長公記』には天文十六年丁未(1547)に信長の武者始(初陣)で「駿河(今川方)から人数(兵力)を入置候 三河之内吉良・大浜へ御手遣い」とあり、これは現在の研究では、父信秀による岡崎・松平広忠攻めに連動した動きと考えられています。祖父信貞が津島湊を、父信秀が熱田湊を、そしてこの機会に信長が大浜湊をとるということを意図したように思えますが、どうやらそれは叶わなかったようで、町に放火して撤退ということになりました。勝利とはとてもいえず、事実上の敗退といえるかもしれません。

『信長公記』の記載から吉良(西尾市)と大浜(碧南市)と2か所を攻めたとも考えられますが、大浜から吉良へは今でこそ陸続きですが、当時は現在の油ヶ淵が入江になっていて、船で渡るか、北へ大回りする必要があったようです。したがって信長は大浜だけを攻めた、としてのでいいのでは。初陣で吉良まで深入りする必要はないでしょう。もし攻めるとしたら東条吉良氏ということになりますからずいぶん遠い。一泊しただけの侵攻では無理だと思われます。太田牛一には大浜は吉良という誤認があったのかも。

それより問題はなぜ「駿河から兵を入れた」と書かれているか、です。天文19年には今川義元が大浜の長田喜八郎に熊野権現所領安堵状を出しています。この人は熊野神社(上の宮)の宮司と考えられますので、天文十六年段階でも長田氏が大浜の実力者であったとして良いと思われます。大浜は安城松平家にとって特別な場所で、安城松平信忠の隠遁の地とされ、墓もある地です。天文十六年の政治状況は、岡崎の松平広忠が自立を目指して、織田信秀と今川義元に敵対しており、大浜(長田氏?)も広忠方だったということでいいのではないかと考えます。そうすると広忠の敵方である今川の兵が入っていることはありえない。今川の兵となれば信秀方ともいえるので、それを信長が攻めるわけがないということに。

義元が判物を与えた長田喜八郎はのちに家康の重臣の一人となる永井直勝の叔父にあたります。直勝は『信長公記』が書かれた頃には下総古河7万2000石の大名ですので、その関係者が信長初陣の相手というのはあまりよろしくないということで、太田牛一がいつものように忖度して、大浜に今川の兵が入っていたのでそれを攻めたとしたのではないでしょうか。

長田氏側の伝承としてこの信長初陣が書かれた文書があります。その文書、永井直勝の父重元の兄甚助の家系に残る長田家御由緒書き(1800年頃の成立ヵ)には「天文十六年という信長の襲撃(初陣)で、初めて熊野権現が焼けた」と書かれています。江戸後期の史料ですが、ひとまず信長初陣を裏付けるものと考えられています。

また地元の伝承として「熊野神社上の宮の神主河合惣太夫が、大浜を守っていた長田重元の留守を信長に密告し、信長は大浜へと攻めてきた。河合は裏切り者として神主の職を解かれ、大浜を追放されてしまった。重元が野ざらしになっていた死体を丁寧に葬り、十三の塚を作った。いつしかその塚のある場所は十三塚と呼ばれるようになった」というものがあるそう。あるいは「十三塚周辺では亡くなった織田軍の兵士十三人を懇ろに弔ったという昔話が残っている」とも。いずれにしてもこうした話から初陣の戦いの場所は当時の極楽寺(現在の津島神社)のあたりとされています。

ただ、そのあたりは大浜のかなり北(電車一駅分)。そうなると大浜に放火したという話もかなり微妙に。単に熊野神社界隈の天王という集落を攻撃しただけなのかも。いずれにしても、地元民もよく知る家康ネタ(伊賀越えの上陸地)ばかりでなく、信長の話もこれから知られていくと思われます(期待してます)。

信長初陣に関する敵方長田家当主による由緒書き(1800年頃ヵ)では、天文16年という信長の襲撃(初陣)で、初めて熊野権現が焼けたとされています。天文19年には義元が長田喜八郎に熊野権現所領安堵状を出していますので、江戸期の史料ですがまあいいかな、などと考えつつ12月6日午後は、鳴海中日文化センターの講座として大浜を歩きます。(写真は『長田・永井一族展 図録』より引用)

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