
中世末期を考える上ではいわゆる徳川史観を排除しなくてはならないわけで、家康と徳川幕府が作った都合の良い歴史を見直すことが課題なわけです。そこでこのところずっと考えている、松平広忠がなぜ幼い家康(松平竹千代)を織田の人質としたのか。これについて今の考えをまとめてみました。
徳川史観では、幼い家康(松平竹千代)は今川に人質に出された時に奪われ、金で売られて尾張に囚われていたということになっています。これは家康が自ら言っていたようで、長く信じられてきました。しかし中京大学名誉教授の村岡幹生氏が、信長の父である信秀が今川義元との間で協議をし、天文16年(1547)に三河を攻めた時に降伏した松平広忠から人質に取った、ということを真相とされたことで、現在ではこれが通説になりつつあります。
ただ、信秀が今川義元との密約を破ってまでして、矢作川を越え、岡崎城を落として家康を人質にしたのはなぜなのか、ずっと疑問に思っていました。そこでまず家康の出生時の状況から考えてみますが、1540年に松平信定が死んだことで、逃亡していた広忠が岡崎に復帰し、その後、すぐに広忠は今川方から織田方に方針を変えたと思われます。そのため水野の女(於大)と41年か42年に婚姻し、43年初めに竹千代(後の家康)が誕生しました。
つまり竹千代は安城・岡崎松平広忠が、織田と組んでいた知多・緒川水野の女(於大)との間に作った子で、つまりは尾張・知多・西三河という三国同盟の申し子。血の半分は三河ではなく尾張・知多にあるわけです。そんな竹千代を織田方として育てあげ、織田方の領主として西三河をまとめさせ安定を図ろうとしたのではないでしょうか。それゆえ、西三河で独立志向を強めていた広忠を攻め、その子を奪ったのでは。
信秀に領土的野心があるなら、この時に岡崎を領地化すればいいわけで、一時的に奪っていた安城城にしろ、領土化はしていなかったようなので、その領土的野心はなく、三河は三河の人間が統治すればいいと思っていたと考えたいところです。そんな中で、竹千代はこれまでいわれているような「広忠の降伏の証としての単なる人質」ではなく、尾張・知多・西三河という広域の安定のためのキーマンとして「松平の血統の後継者としての竹千代を尾張で育成しようとした」のでは。織田から奪い返した今川がその後、竹千代を大事に西三河の象徴に育て上げた事実もそれを裏付けると思います。