2017年2月4日

信長が落とせなかった高岡城跡公園
1567(永禄10)年に岐阜に入った信長のことを、多くの人は強くて、破格にスゴイ人というイメージでとらえていると思いますが、一年前の1566(永禄9)年4月上旬には稲葉山城東側の各務原から攻めようとしたものの撤退、5ヶ月後の閏8月8日にも南側から攻めようとして河野島、つまり今の川島サービスエリアのあたりで斎藤龍興に敗れて、その結果、足利義昭からも見限られてしまうという、けっこう情けない状態にありました。
そこでこのあと信長は力攻めでなく調略戦に転じたようで、以前に娘婿の竹中半兵衛と岐阜城を乗っ取ったことのある安藤守就など、必ずしも一枚岩ではないと思われる西美濃の有力国人衆を見方に引き入れようとしていたようです。
資料もないですが、結果的にはそうなっていますので、そうだったのだろうと想像するしかありません。以前書いたように、井口、つまり今の岐阜市は当時の信長にはあまり必要ないところなのです。西濃を自由に通行できるようになって、関ヶ原へ向かえるのであれば、そのルートからは外れている井口(岐阜)の街などある意味どうでもいいのです。とにかく尾張からの上洛路を確保することが最優先課題ですから、西美濃調略に力を入れたのです。
ただ関ヶ原から京へ進むルートだとその先、北近江の浅井氏、南近江の六角氏を手懐ける必要があります。浅井はこの後に妹お市を嫁がせるなど、信長寄りにできたのですが、六角は龍興と組み徹底抗戦の姿勢を崩していません。
信長は、それなら桑名から鈴鹿あたりの北伊勢を攻略して、尾張から長島、桑名、鈴鹿、関、甲賀、守山という上洛ルートを確保できないか、と考えたのではないかと思います。かつて信長が家臣80人ほど(供回りを含めると500名とも)と上洛したときは、八風峠で鈴鹿山脈を越えて近江の守山へと進みました。いなべから八日市へ通じる今の国道421号線です。ただこの山越え道は当時厳しい道であったため、大軍の移動には向いてないと思われます(※現在の研究では行きは伊賀街道から大和路を進んだと考えられる。帰りは八風越えとなった)。
そうなるとやはり今の国道1号線や名阪国道のあたりを通りたいところですし、義昭のもとで信長や家康との間を取り持っている和田惟政は甲賀の人ですから、それも好都合というもの。ということで、河野島で負けてからの信長は、上洛のための西濃ルート、または北伊勢ルートのどちらかを確保しようと考えていた、そう想像したいところです。名神高速か、新名神高速かどちらから行こうかということですね。

整備されている楠城址
年が明けて1567(永禄10)年8月11日、信長は北伊勢攻めを開始しました。里村紹巴という連歌師はその頃、津島、熱田、大高といったあたりにいて、信長の出陣によって起きた長島や桑名方面の火災が、海越しに見えたという詳細な記録を残しているので、まず間違いないと考えられます。
このルートの最初の課題は一向宗の集まる長島ですが、このときは信長側が圧倒的に強かったようで、破竹の勢いで、20日には楠城(四日市市の南方、楠町本郷字風呂屋)を落とし、さらに鈴鹿川沿いに進んで西2キロの鈴鹿市高岡にある高岡城を攻めていました。するとそこへ西美濃三人衆が信長側へ寝返ったという報が入ったため、滝川一益にそこを任せて、信長は尾張へ戻りました。
ということで楠城を尋ねてみましょう。小牧山城からは直線でも50キロあります。鈴鹿ICから30分ほど。楠という地名はくすと読みますが、ここはかつて大きな港で、鈴鹿峠を越えてきた旅人はここから船に乗って尾張へ渡ったりしています。楠城は伊勢国司北畠顕泰が建てたとも、楠木正成の末裔とされる楠(諏訪)十郎貞信が建てたともいわれていますが、よくはわかりません。
伊勢海や鈴鹿川などで囲まれた要害の地にあり、今は住宅地から少し離れたところが城跡として整備されています。明治時代に植えられたクスの大木が目印です。近くに四日市市楠歴史民俗資料館(楠町本郷1068)もありますから、そちらもぜひお寄りください。

この山の上に高岡城があった

はるか伊勢湾まで見渡せ、鈴鹿川が自然の堀となっている
楠城は信長に簡単に落とされたようですが、高岡城は抵抗しました。こちらは標高50メートルの山城で、南の鈴鹿川が堀になり、行ってみると攻めにくそうな城であることがわかります(鈴鹿市高岡町1404)。クルマでも登れ、よく整備されていて南側は伊勢湾まで一望できます。
現在の鈴鹿にあった神戸城がこのエリアの中心の城でしたが、高岡城はその神戸城・神戸友盛の家老とされる山路弾正が守っていました。信長は翌年も攻めたのですが山路誕生は粘り強く、ここが落城しなかったため、三男信孝を神戸へ養子に出すこととしたわけです。ちなみに神戸城は高岡城の南南西3キロにあります。