2019年10月19日

私は、鳴海中日文化センターで「若き信長150名所スタンプラリー」という講座を開催しています。今回もその講座でのお話をご紹介しましょう。
講座情報:「若き信長150名所スタンプラリー」
2019年9月に「若き信長150名所スタンプラリー」で巡ったのは平手政秀に関してのあちこちです。信長の守役とされ、信長の素行を諌めるために腹を切ったと言われている平手政秀ですが、色々面白いことがわかってきました。まず平手政秀が生まれたのは逆算すると1492年(明応元年)と考えられます。信長の父の信秀が1511年の生まれとされ、信長は1534年生まれですから、信長が生まれたときはすでに42歳、信秀の生まれた時でも19歳(いずれも満年齢・以下同)で、当時としてはすでに立派な大人ということになります。ということは、信長の祖父である織田信貞と同世代の人ということになりますね。信貞は津島を手に入れましたが、息子の信秀が15歳になったころにはすでに亡くなっていますから、その後、若き信秀を支えたのが平手政秀なのでしょう。信秀が20歳の頃、京都の公家山科言継が信秀の勝幡城に来た時には、近くにあった平手政秀屋敷の作りの素晴らしさを褒めています。この時政秀はすでに41歳になっています。
その後、信秀は尾張でメキメキと頭角を現し、1538年には那古野城を手に入れて熱田を支配します。そして1543年には朝廷に4000貫文という大金を寄付し、その使いとして51歳の平手政秀が上洛しています。信秀はその後も活躍を続け、最新の愛知県史通史編によれば、ついには今川義元と示し合わせて安城など矢作川から西の「西三河の半分」を手中に収めます。ところが、1547年に矢作川を越えて岡崎にまで侵攻してしまったため、今川との関係が悪化します。このため1548年に小豆坂合戦が勃発し、そこで敗北した信秀は、関係が悪化していた清須の守護たちとも和睦せざるを得ませんでした。この和睦を取りまとめたのも平手政秀でしたが、このころすでに56歳でした。信秀は病になり、信長もまだ若年でしたから。政秀の老獪な手腕がなければ、信長の織田弾正忠家は潰れてしまっていたかもしれません。そのころ政秀の屋敷は信秀の那古野城の北、現在の北区志賀町にありました。

その後、信秀は1552年に数え歳42歳で亡くなり(諸説あり)、家督は若き信長が嗣ぐことになりましたが、家中は信長派と弟の信勝派に分かれてしまったようです。信勝派は守護の斯波達勝とも近く、今川との関係を修復して共存することを探っていたようです。それに対して、信長は志半ばで逝った父信秀の無念を思ってか、今川に対して反発を強めていました。守護や織田一族はあてにならないと、私兵(俗に言われる信長の親衛隊)を組織してあくまで武力で今川に対抗しようとしていました。この信長と他の織田一族との板挟みになったのが、信長の幼い頃からの守役であり、信貞、信秀、信長と三代にわたって弾正忠家に仕えてきた平手政秀でした。
信長は1551年には藤島城(愛知県日進市)の丹羽氏秀と、岩崎城(愛知県日進市岩崎町市場67)の丹羽氏清との内紛に介入して戦い、敗北したと言う話が残っています(敗北なので信長公記には書かれていないのでしょう)。これが事実だとすると、当時の尾張・三河の国境エリアの領主である丹羽氏清は今川方でしたので、信秀のあとを継いだ信長が今川に対抗した初めての戦いということになります。翌1552年4月にはよく知られているように今川方に寝返った鳴海城の山口親子と赤塚合戦を戦っていますから(こちらは引き分けだったので信長公記に書かれています)、信長はこのころ、明確に今川に対抗しています。これに対して今川勢はこの年8月には八事(今の天白区元八事)のあたりまで攻め込んできているようです。それなのに一気に尾張を落とさなかったのは、清須の斯波氏などによる和解工作があったのかもしれません。今川との関係修復を模索する守護ら尾張の主流派にとっては、信長はとんでもない跳ね返り者となっていたのです。

こういう状況の中、1553年閏一月十三日に平手政秀は腹を切りました。信長公記には政秀の息子の馬を信長が欲しがり、もめたからと書いてはありますが、それは信長公記がこの頃の信長の政治的なスタンスをはっきり書かないゆえの方便にも思えます。政秀は今川との関係修復・和平を信長に促すために腹を切ったのでしょう。信長が尾張で孤立しないように。しかし信長はそんな平手の死をうけても結局態度を変えなかったのですが。ということで、平手政秀は信長の素行を諌めるためでなく、信長の政治的志向性を変えさせ、弾正忠家を存続させるために腹を切ったのではないかと思えます。
さて、ここからが面白い話になります。政秀が腹を切ったのは平手屋敷(名古屋市北区志賀町)と言われてきました。ところが、平手政秀の首塚といわれるものが名古屋市西区中小田井の東雲寺にあるのです。しかも腹を切ったのはこの近くの庄内川堤防で、という伝承もあるようです。小田井といえば現在の国道22号線古城交差点のところにあった小田井城城主・織田藤左衛門家の地元です。小田井は織田井(井戸)から転じた地名という話もあるところで、そこにある臨済宗妙心寺派の東雲寺は創建が明応元年(1492)で、開基は小田井城主織田丹波守常寛とされています。

ご住職に話を聞くと、言い伝えでは東雲寺三世の沢彦宗恩が平手政秀と親しく、自害した政秀の首は東雲寺に運ばれ、ここで葬られたそうです。それが平手政秀首塚とのことでした。沢彦宗恩といえば、信長の名を考え、信長の教育をし、岐阜という地名をつけた軍師のような人として知られています。信長が平手政秀を弔うために作った政秀寺の開基も沢彦です。ただ、沢彦の年齢的には信長の名付け時期は合わないため、万松寺の大雲永瑞と混同されているのでは、とか、岐阜の地名も元からあったものだったのではとか、という話になってきており、沢彦の逸話は見直されつつありますが、この東雲寺の話は初めて聞いた話でした。
あくまで想像ですが、古くから織田一族の間で立ち回ってきた政秀は、有力な小田井の織田藤左衛門家にも信長を諌めて助けてやって欲しいと沢彦を通じてメッセージを出したのではないでしょうか。61歳の政秀は、命をなげうって信長の考えを変えさせようとしたのです。信長の素行のような些細な話で腹を切ることはないでしょう。弾正忠家のみならず尾張の行く末を案じて、信長を諌めようとしたのではないでしょうか。その思いは信長に伝わったのかもしれませんが、信長の方針は変わることはありませんでした。ご存知のようにこのあと信長は、織田家の主流になるどころか、守護までを追い出し、今川義元を討ち取るという政秀には想像もできなかったであろう活躍をすることになるのです。あまり知られていない東雲寺の政秀の首塚からこんな話が考えられると思います。

ところで沢彦宗恩ですが、美濃の快川紹喜(最後には信長に抵抗して、武田滅亡の折、甲斐の恵林寺で生きたまま焼かれた妙心寺派の高僧)とも親しかったとされ、こうした臨済宗妙心寺派のネットワークが後の信長にとって重要な情報源になったと思われます。それが、沢彦が信長の軍師とかいわれる所以でしょう。
ということで私の講座では、毎月一回、第一土曜日午後3時30分から1時間半の座学でこうした若き信長の話を発掘・検討し、次の月の第一土曜日にはその話の現地を皆で訪れています。よろしければみなさんもぜひご参加ください。鳴海中日文化センターは名鉄鳴海駅前徒歩一分、名古屋駅から電車で20分ほどですからそんなに遠くはありません。講座は土曜の午後ですからお勤めの方も参加していただきやすいかと思います。次回11月2日は織田信長初陣の地、三河大浜へ出かけます。
