第35回 桶狭間史跡巡りその1 二ヶ所の古戦場跡

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2013年12月2日

※この記事を書いた当時はまだ新説に至っておらず、現在の見解とは異なっている部分があることをご了承ください。

さてこの連載では桶狭間の合戦間際まで話が進んでいるのですが、信長がどこから桶狭間の今川義元を攻めたのか、正面攻撃なのか、奇襲なのか、いや一体義元はどこに居たのか、この戦いにはあまりに多くの謎があり、実はまだ誰も決定的に解き明かしていないのです。

ここ20年ほどは、私も支持する正面攻撃説が主流ですが、最近は見直された迂回奇襲説も登場して、諸説入り乱れた状態です。

そこでこの戦いの謎を考えてみる前に、地元に残る戦いの痕跡をまずは巡ってみてはいかがでしょう。何度か現地を訪れてみると、頭で考えただけでは出てこない発想が生まれると思うのですが…。

さてそこで、まず基本として押さえておきたいのは、桶狭間の古戦場と呼ばれる場所が現在二か所あることです。ひとつは国の史跡として指定されている愛知県豊明市の古戦場跡(伝説地)です。

国道1号線(昔は東海道)から南に100mほど入った場所で、名鉄中京競馬場前駅からも歩いてすぐ。所在地は豊明市栄町南館12となります。江戸時代に東海道が整備された時、そこから近いこの地が、当時の観光地的な意味合いも含めて、古戦場跡とされたようです(ちなみに信長の時代にはまだ東海道は整備されていません)。

ここには1771年に建てられた七石表という石碑があり、それによって今川義元や松井宗信の戦死場所とされていますが、戦いから200年以上後のものであり、残念ながら現在では歴史的にあまり高い評価はされていません。

また明治になって建てられた義元の墓もあります。それでもこのあたり一帯で戦闘が行われたことは間違いないでしょうし、ここから南東1.5kmには戦死者を集めて埋葬した戦人塚(国指定史跡・豊明市前後町仙人塚1736-170)もあり、敗走する今川軍がこのあたりで多く討たれたのではないでしょうか(現在の研究ではこれらの場所は否定されているが、地元では今も根強くここだとされている)。

道路を挟んで古戦場跡の西側には高徳院というお寺がありますが、かつてはここが義元本陣とされていました。今もこのお寺界隈を会場として、豊明市観光協会が桶狭間古戦場まつりを毎年6月の初め頃、大々的に行っています。

しかしもう一つ、名古屋市緑区にも桶狭間古戦場公園(緑区桶狭間北3丁目)があります。というのも広域で合戦のあったであろうこのあたりを真っ二つに、豊明市と名古屋市の境界線が南北に走っているのです。

このため緑区でも豊明とは別に古戦場祭りが開かれています。現代の事情は当時よりちょっと複雑ですね。

信長と義元の像や、当時の状況をジオラマ的に公園施設にしたものなどがある緑区の桶狭間古戦場公園は、近年きれいに整備されています。しかし何といっても、この場所こそ、義元が討ち取られた場所であるという言い伝えには力があります。

義元戦死地として戦いの後200年近く、300坪ほどが空き地として残っていたといいます。この公園の詳細はまた次回ご紹介しましょう。

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