第4回 信長の時代、岐南町や羽島市は尾張だった

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2012年10月6日

信長の若いころ、尾張は今より北に広く、南に狭かったのですが、御存知でしたか。当時、尾張と美濃、尾張と三河の間には「境川」という川が流れていました。そこが尾張と美濃、三河の国境(くにざかい)でした。まさに両国の境の川ですからこんなにわかりやすい話はありませんね。

この境川は今も流れています。猿投山から衣浦湾へと流れる三河との間の境川は、今もそのまま三河との境界になっています。もちろん愛知県内ですから、もはや国境という意識はないのですが、それでも尾張と三河という土地柄は今も十分残っていますね。

さて問題は美濃(岐阜)との間の境川です。現在、愛知県(尾張)と岐阜県(美濃)の県境はご承知のように木曽川です。しかし境川はそのはるか北を流れているのです。

各務ヶ原の航空自衛隊基地南あたりで木曽川から分かれた境川は、北西へ流れて岐南町の北で南西に向きを変え、笠松、柳津のそれぞれ北側を通って、羽島の北で長良川に合流しています。この長良川は昔、合流地点あたりから下流では尾張川とも呼ばれていました。

ということで境川、その先の長良川が美濃との国境ということになると、今の岐南町から羽島市までの広いエリアがなんと尾張だったということになります。

実はこのあたりは信長の時代には尾張国葉栗郡でした。現在では完全に岐阜県という感覚ですが、信長の死後、秀吉の時代である1586年に大洪水があって、現在の巨大な木曽川ができ、それ以降木曽川が国境になってしまったとされているからなのです(※これには異説もあり、現在ではこの洪水が木曽川本流を作ったわけではないとされている)。

信長の土地勘を知るために、ぜひ当時の尾張の境まで行ってみてください。特に岐南町や羽島で、境川を見ると尾張の広さが実感できると思います。カーナビには岐阜県羽島郡岐南町八剣北1丁目と入れてください。

川といえば尾張は、木曽川から多くの支流が流れ込み、今よりずっとたくさんの大きな川が、複雑に流れていました。そして川は時に氾濫して、流れを変えていったのです。特に木曽三川河口付近の長島のあたりは、今とはまったく異なった川筋だったようです。

さて、南に狭いというのは、伊勢湾が内陸に入り込んでいたからです。当時の海岸線は今の国道1号線のあたり。熱田神宮からは南わずか500メートルほどで海岸となりました。つまり熱田は海に面した湊町だったのです。

熱田から1号線を南方向に進み、鳴海のあたりまで、逆に西に進み中川区から蟹江あたりまで、この1号線がほぼ当時の海岸線と考えてもいいでしょう。名古屋市南区岩戸町7-19の白毫寺にいくと、当時の伊勢湾の海岸線がよくわかります。信長はそんな尾張に住んでいました。

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