第34回 善照寺砦に入った信長、桶狭間に陣取った義元

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

※この記事を書いた当時はまだ新説に至っておらず、現在の見解とは異なっている部分があることをご了承ください。

2013年11月11日

熱田神宮で戦勝祈願をし、兵を集めた信長はこの時、満26歳。そういえば神宮本殿奥から鎧の音とともに白鷺が舞立ち、それを見て勝利を鼓舞したという話が真しやかに伝わっていますが、さすがにこれは後世の創作のようです。

さて熱田神宮に着いた午前八時頃には、現在も神宮の敷地の南端にある上知我麻神社(当時はさらに南の海岸にあった)に行くと、そこから東南方向の海越しに煙が見え、丸根・鷲津の砦が攻撃されていることがわかりました。

信長公記には熱田では雑兵200名ほどが加わったと書かれており、この時点ではまだせいぜい300人程度の手勢ということになるのでしょうか。

上知我麻神社から海越しに煙が見えたというのは、以前ご案内した通り、このあたりから南東が現在と異なって海だったからです。現在の堀田界隈まで海岸線は入り込んでおり、そこから南は今の東海道本線あたりがだいたい海岸線だったと考えていいでしょう。

ただし遠浅の海でしたから、引き潮になると徒歩で鳴海方面へ渡れたのですが、この朝は潮が満ちていて通れず、やむなく神宮の東側から鎌倉街道「上手の道」で鳴海方面へ向かいました。

現在の瑞穂区大喜町、井戸田町、中根町と通って天白区島田で天白川を渡り、南下して緑区野並、かつて赤塚の戦いがあった古鳴海を経由して丹下砦に入ったのです。この間、約8~10kmあり、信長は飛ばしに飛ばして駆け抜けました。徒歩で2時間ほどの距離ですから、部隊の移動には最低でも1時間くらいはかかったのではないでしょうか。

ただその間に尾張各地から信長に従う兵が鳴海方面へ集まってきたとも考えられます。清須の出陣から早くも4時間ほど過ぎていますから。また砦にはあらかじめ多くの兵が集められていたとも考えられます。

遠く岐阜県中津川市の苗木城主遠山直廉もこの戦いに参戦しており、これはあらかじめ苗木からここへ出兵してきていたということでしょう。

信長は鳴海城北側の丹下砦砦に着くとすぐに南東800mほどの善照寺砦へ移動しました。そしてここで兵を整えました。熱田を出た時300人程度の兵がここで何人になったのか、残念ながら資料はありません。しかし親衛隊を中心とする2000ほどの兵がここに集結したのではないでしょうか。

資料がないといえばそれは今川方も同じです。義元が19日正午ごろ、討ち取られた桶狭間山にいたとすれば、17日に居たという沓掛城を出るのは午前10時過ぎでいいことになります。しかしそんな朝寝坊な武将はいないでしょう。

では義元は朝からいったいどこにいたのでしょうか。おそらく義元は前日の18日に大高城へ兵糧入れを成功させ、自ら大高城に入ったのではないかと私は考えます。

そして19日朝から軍を指揮して鷲津砦を落とし、次に松平元康に丸根砦を攻めさせ、見事攻め落とした元康を大高へ帰し、さらに桶狭間方面へ向かってそこで休憩し、午後からは鳴海城救援に向かおうとしていた、とすれば、全ての辻褄が合います。

数万ともいわれる義元の軍勢ですが、兵站など非戦闘員も多く、また戦闘兵も大高、鷲津、丸根、そして桶狭間方面とかなりの広域に展開しており、義元本陣の兵はさほど多くはなかったと考えられるのではないでしょうか。

こうして19日昼前に善照寺砦の信長、桶狭間の義元という役者が揃い、いよいよ信長の攻撃が始まります。それはまた次回です。

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