第56回 まだ引っ張る小牧山城の話「都市計画に基づいた城下町」

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2015年3月21日

小牧山山頂からは、今でも敵の稲葉山城(岐阜城)がよく見える

信長の美濃攻略話、ずっと小牧山城に留まってしまっていますが、いよいよ今回がその最終回です。

山頂付近の発掘調査によって3段の石垣が発見され、いよいよ当時としては驚くべき規模の城であるとわかりつつある小牧山城。長く苦しい戦いの末、尾張をついに(ほぼ)統一した若き信長は、この城を尾張の主たる自らの権力の象徴とすべく、当時としては最先端の技術を使って作りあげたようです。

そしてこの城を犬山攻めの武力拠点として作っただけでないことが、やはり発掘調査によってわかってきています。30歳の信長は、城の建設と同時に新たに城下町を開発し、どうやら「小牧山城をシンボルとする尾張新首都建設計画」を実行していたのです。

小牧へ移る前信長が居たのは清須です。守護所であり、古くから尾張の中心地であった清須は、船便の使いやすい便利な場所にありましたが、低地で、水害や敵からの攻撃には強いとはいえない立地でした。

この時代、多くの戦国武将は戦いに有利な山城を作っていますが、尾張は山城を作ろうにも山が少なく、適当な場所がありません。しかし小牧は、台地状の平地の上に、城が建設できる手頃な山があり、西側の一段下がったところには五条川支流の巾下川があって船便も使えるという、理想的な立地といってもいいところでした。

祖父の代から津島や熱田という商業都市を押さえることでのし上がってきた信長ですから、武力だけでなく経済成長のための理想都市作りを、この小牧の地で実現し、武力と経済力の両面を強化・発展させるつもりだったのでしょう。

小牧市では平成10年以降に城下町も発掘調査されており、そこから見えてきた信長の城下町の規模は、南北1.3km、東西1km。東西に5本、南北に4本の道路が作られました。道路で囲まれた街区には、間口7mほどの家が道路を隔てて六軒ずつ建ち、家の奥(道路の反対側)には井戸と畑があり、さらにその奥に街を貫通する下水が流れています。つまり上下水完備の集合住宅街が計画的に作られていたのでした。

また奈良大学の千田嘉博教授が古地図などから見つけた鍛冶屋町(鉄工業)、紺屋町(繊維業)といった地名のあたりに、商工業者がまとまって居住していたことが、発掘によってわかってきています。

さらに街区の東側に武士の館や寺院を配置し、周辺に水路を巡らせて、堀の役目も与えていたようです。また現在の小牧市役所のあたり(城の大手門の前あたり)は共用空間(集会所?)のような空き地も用意されていたという説も出てきています。

さらにさらに、信長や側近たちは城の裾野に屋敷を構えていたのではないかとも考えられるようになっています。つまり小牧は綿密に計算された都市計画のもとに作られた、理想都市であったことがわかってきています。

発掘では瀬戸や美濃の陶器類も多く出土しており、小牧はこれらの生産地にもほど近く、先回紹介した、美濃・瀬戸焼の集積地ではないかとされる守山区志段味地区の天白元屋敷遺跡からも陸路であれば京方面に近いため、そうした物品の陸送拠点としても考えられるのでは、という意見も最近は出ています。

日本で始めての石垣の城と、整然と並ぶ商工業者の町並み、それを守るように建つ武家屋敷。信長が関わってきた津島、清須、名古屋、熱田といった当時の大都市の良い所を活かし、最新の城を中心にして理想的に配置して作りあげたのが小牧だったのでしょう。

美濃がなかなか攻略できないことを踏まえ、30歳の信長はここを拠点として次の展開を考えたはずです。ところが、意外に順調にこの後4年で美濃攻略が成功したため、さらに地の利の良い岐阜へ拠点を移動させてしまいました。そのため小牧は急速に衰退してしまったのでした。

そのような小牧ですが、今後は発掘調査がさらに進んで、新しい発見が出てくるはずですので、ぜひ注目していていただきたいと思います。

なお小牧市のホームページ内には、小牧山に関する詳細な情報が掲載されています。そちらをぜひご一読ください。

望遠レンズで見た稲葉山城
タイトルとURLをコピーしました