第59回 桶狭間の「地元」合戦はそろそろ和睦しないと…

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2015年6月1日

今回はまたまたちょっと脇道にそれますが、桶狭間の古戦場跡が豊明市と名古屋市緑区の二カ所にあることはご存知ですよね。

超有名な合戦なのに謎ばかりの桶狭間合戦ですが、旧日本軍が説いた迂回奇襲説が強かった時代は、国も史跡に指定したように、豊明の古戦場が主戦場だったとされてきました。

ところが30年ほど前に正面攻撃説が出されたことや、緑区の地元の盛り上げによって、緑区桶狭間に古戦場公園が整備され、こちらこそが主戦場だと主張されるようになり、豊明は若干劣勢にまわっていました。

そんな豊明に強い味方が現れました。5年前に「桶狭間合戦奇襲の真実」という本を出し、正面攻撃説を否定して、義元本陣を豊明側としたのが、愛知県大府市在住の太田輝夫氏です。

氏の説によれば、鳴海の中島砦を出た信長の戦闘部隊は、従来説とは若干異なる迂回ルートを通って、豊明の古戦場公園付近にいた今川義元を奇襲したとします。

講演中の太田輝夫氏

山中を迂回して豊明の古戦場伝説地北側の谷(現在の中京競馬場西側あたり)に潜んだ信長軍は、まず佐々隊が今川軍列の先頭に回りこんで突入し玉砕、それに油断した今川本陣を信長本体が南側から回りこんで奇襲に及んだという説で、これもまたさもありなんと思えるものです。

この説によれば豊明の古戦場こそが本当の場所ということになるわけです。太田氏は、現在緑区の古戦場公園にある古い古戦場碑が、実は東海道沿い(つまり豊明市の古戦場公園の方)に建っていたという明治末期の写真も示し、緑区側をけん制します。

太田説の立体模型

緑区の桶狭間の方も、地元の歴史研究家梶野渡氏(95歳ながら今年もお元気に古戦場まつりで講演されました)の説としては迂回奇襲となります。

ただし、義元の本陣位置は緑区内であるとしているのですが。このように地元のライバル意識は相当なもので、密かに火花を散らす合戦が繰り広げられているようです。私は私で、正面奇襲、古戦場は緑区説をとっていますので、また見解が異なるのですが…。それぞれの説はそれぞれの著書を読み比べてみてください。

5月27日放送のNHK歴史秘話ヒストリア今川義元特集(再放送は6月3日水曜お昼すぎの予定)では、合戦を出会い頭としていましたが「それは違うでしょ」と、皆がツッコミを入れたのではないかと思います。そんなわけで、桶狭間論議はますます盛り上がっているわけです。

梶野渡、水野誠志朗、太田輝夫、それぞれの本

5月19日には名古屋市が桶狭間を観光名所として売りだそうと検討を始めたと中日新聞でも報道されました。豊明市に配慮した報道でしたが、動いているのが河村市長であるだけに名古屋市側が中心となったプランが作成されそうな気がします。

いずれにしても桶狭間合戦はこの一体の広いエリアで行われました。はるか後に名古屋市と豊明市という行政区分ができたわけで、それによってこのあたりの歴史観光が分断されているのは大変残念なところ。義元本陣がどこにあったにせよ、戦いの痕跡はあちこちに残っているのですから、歴史ファンとしてはなんとか全部をとりまとめてもらいたいものです。

梶野氏が主張する緑区の本陣跡の碑

私もある歴史講座で現地を巡る歴史ツアーを催しています。6月14日のツアーでは、熱田湊から東浦町の村木砦跡へ、信長の進んだとおりにクルマで進軍してみようと思っています。そんなツアーがたくさんあれば、観光客はどんどん誘致できると思うのですが…。

豊明の桶狭間古戦場公園

5月17日に緑区の方の桶狭間古戦場まつりは終わってしまいましたが、豊明の方は6月7日に桶狭間古戦場まつりが行われますので、そちらへぜひおでかけください。会場は名鉄本線の中京競馬場駅から徒歩3分という国道1号線(東海道)脇の便利なところです。江戸時代の街道脇ということで、観光しやすいここが古戦場とされた、という穿った見方もありますが。

※現在、私達は新説を打ち出しており、これら三つの説のどれでもないということに。ただ義元戦死は緑区の古戦場であり、豊明の古戦場伝説地は残念ながら古戦場ではないと結論付けています。

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