2012年11月16日
尾張の実力者だった父、織田信秀の死後、その家督を継いだ弱冠18歳の信長。今と違って当事の18歳は十分大人のはずですが、それでも老獪な親族や地侍勢をまとめるには、まだまだ若輩だったようです(近年では信長は今川との交戦を望んでおり、それが信秀時代の国人たちの反発を招いたとされている)。
そのため信秀の葬儀の後、早くも裏切り者が現れます。それは現在の緑区鳴海に拠点を置いていた山口教継、教吉親子。かつては今川那古野氏の配下であり、領地が三河の国境に接していた事もあって、信長を見限り、今川方につきます。1552年のことではないかと言われています。
そこでその年4月17日、信長は那古野城を出陣し、天白区の中根から緑区古鳴海を経て三之山に陣取り、鳴海城と桜中村城の山口親子と対陣しました。三之山は緑区鳴海町の山王山です。
現在は千句塚公園が整備されていますが、今でもかなりの高台。公園内の一番高いところへ登り、ここに信長が陣取ったと想像するとワクワクできるでしょう(発掘調査で堀跡などがみつかっている)。

対する山口親子の拠点は、当時、南に海が広がる高台の鳴海城(現在の緑区字城の城址公園)です。山王山の南1キロの地点です。現在城址公園の辺りが本丸で、東の道路を越えたところにある天神社あたりが東曲輪でした。
やがて信長より1つ年上の山口教吉が、山王山の東の赤塚というところへ軍を進め、信長軍と激突。午前10時頃から2時間の激闘が行われましたが、引き分けに終わり、双方の捕虜の交換をして引き上げました。赤塚古戦場の場所は残念ながら特定されていませんが、赤塚古墳がある鳴海町赤塚辺りではなく、互いに高台から下った位置である、成海神社の西側あたりの低地でしょう。
この戦いでは山口勢が約1,500人、対する信長勢は約800人といわれています。信長側の戦死者は30名ほど出たようですが、敵の半数である800人の信長軍はかなり強かったようです。
この800人こそ、信長がうつけとして尾張各地のはぐれ物や武家・農家の次男坊以下から集めた直属の常備軍、信長親衛隊でした。早くもこの時期に信長は、兵農分離で、どんな季節でも戦える常設軍を作りあげていたようです(近年の見解では、この戦いではまだそうした軍勢はまだ出来上がってはいないとされる)。
