2015年6月24日

家康と同盟し、小牧山城を作り、新首都の建設と犬山攻めをするための準備(黒田城や小口城の調略)に追われていたために、美濃攻めは一旦休止となっていたのが1563年から64年ごろの信長です。
一説には美濃の斎藤龍興との間では和議も結ばれていたとか。そのために若い龍興には「気の緩み」が出て、厭戦気分が義龍の稲葉山城(岐阜城)には満ちていたようです。そんな中、歴史に名高い竹中半兵衛重治による稲葉山城乗っ取りが行われました。
1564年2月6日、不破郡の菩提山城主竹中重治と本巣郡北方城主安藤守就は、龍興をいさめるためとして少数の兵で稲葉山城(現在の岐阜城)を急襲。あっけなく城を乗っ取りました。
今では信長の菩提寺として知られている崇福寺(岐阜市長良福光2403-1)住職だった快川紹喜(後に甲斐で信長に焼き殺され、火もまた涼しと言った高僧)が、稲葉山城は白昼に襲われ、6人が殺されて国が奪われたと、この頃手紙に書いています。

竹中半兵衛重治は後に秀吉の名軍師として知られる人物ですが、この頃は龍興軍で活躍していたようです。安藤伊賀守守就は、竹中半兵衛の舅で、信長が1554年に村木砦を攻めた時、那古野城の守りを固めるため斎藤道三から尾張へ派遣された武将であり、後に信長に使えた美濃三人衆の一人です。この時点ですでに信長とも面識がありました。
また二人とも西濃を拠点とする武将であり、龍興配下ながらある程度独立した勢力ともいえますから、この行動は本当に乗っ取りだったのではないでしょうか。半年ものあいだ岐阜城の占拠を続けているので、単純に義龍をいさめるためだったとは思えないところです。ただ龍興や家臣団は殺されず逃げ延びているので、美濃一国を完全掌握するところまではいかなかったようです。
信長は美濃半国を与えるのを条件に稲葉山城引き渡しの誘いを出したという話もありますが、真相はわかりません。その使いが秀吉だったとも言われます。結局、信長との交渉がうまくいかなかったのか、やがて竹中は龍興に城を返し、浅井長政を頼って江北へ落ちていきましたし、安藤伊賀守も出家しています。
これらから城を渡す代わりに命は助けるということで竹中は義龍と和睦したというようにも見えます。信長としては労せずして美濃を手に入れるチャンスを逃したのでした。ということはこの行動も実は信長の調略活動だったのかもしれません。和睦したとみせかけて信長のやりそうなことではあります。

竹中半兵衛の本城は山城の菩提山城ですが、その麓に岩手城という平時の城があり、ここは子の竹中重門が築いた城趾が残っています。江戸期には竹中氏陣屋と呼ばれたところで、堀に突き出た石垣の上に立つこともでき、なかなかいい雰囲気です。竹中半兵衛の像もありますので、ぜひ一度おでかけください。場所は岐阜県不破郡垂井町岩手619-2です。