2015年2月16日

小牧山城の発掘調査で、またまた凄い発見がありました。これまでこの連載でも書いてきたように、信長が作った小牧山城は天守部分をぐるりと二段の石垣が取り巻いているという画期的な「見せるための城」でしたが、小牧市教育委員会による今年度の第七次発掘調査で、北側の斜面からなんと三段目となる石垣が掘り出されました。
場所は、1600年代中頃に作られた小牧山の古城絵図と照らし合わせると、敵対している犬山城方面を向いた斜面です。

三段目の石垣の高さは一段目や二段目より低い1mから1.2m程度で、石垣の上には土がなだらかに盛られており、後世の城作りでは腰巻き石垣とよばれるものです。ただこれも斜め下から見上げると一段目、二段目同様に、一段の高い石垣に見える視覚効果をねらった位置にあるようです。
こうなるとさらに四段目、五段目の石垣が出てくる可能性もあり、下から見上げると巨大な石の壁を持つ城に見えることになります。当時はまだ高石垣を積む技術がありませんから、こうした手法を用いたのでしょう。
信長公記には小牧山城が出来上がっていくのを見た5km北の於久地城(小口城・丹羽郡大口町)の敵兵は、怖れをなして犬山へ撤退したと書かれています。でもこれ二段の石垣だけではちょっと意味がわかりませんでした。
しかしこの発見でこの記述の意味がよくわかってきます。今までに無い要塞が出来上がっていくのですから、そりゃあ逃げるというもの。圧倒的な力を誇示する道具としての城が小牧山城だったのでしょう。

発見された三段目の石垣に使われている石は、小牧山でとれる堆積岩(チャート)だけでなく花崗岩や角の丸まったどこかの川原の丸石が多く使われています。これらの石は外部から運び込まれた石で、特に花崗岩は城の北東2.5kmにある、花崗岩の産地である岩崎山から運ばれてたと推測されます。
ということは信長の支配地域がこの頃、岩崎山のあたりにまで及んでいたわけで、そうなるとその北の青塚古墳のあるあたりが信長軍と犬山の信清軍との最前線ということになるのかもしれません。



さて今回の発見の中でもう一つ注目されるのが、石垣の裏に入れる裏込石と造成土を区別するため、垂直方向に入れられた土留石が発見されたことです。
小牧市教育委員会の小野由紀子氏によれば、この土留石の使い方をみると完成された石垣作りの技術を持つ集団がこれを作っていると想像されるとのこと。その集団はいったいどこの人々で、信長とはどういう関係の人々なのでしょうか。
そこで考えられるのが熱田です。後に安土城を作った熱田宮大工の棟梁岡部家は、信長の生まれた頃、すでに日本では最先端の技術集団だったようですから、この関係者に土木技術の専門家がいたとしても不思議ではないと思います。
信長の支配していた熱田は物だけでなく、新しい技術も流入してくる日本屈指の貿易港だったのでしょう。信長はそこで新しい知識や人材を得て、小牧山城と城下の理想都市作りを始めたのではないでしょうか。メイドイン熱田の技術がこの石垣を生み出したと想像してみると、ちょっと楽しくなってきますね。

最後にもう一つ、謎があります。この石垣は江戸時代初期(1600年代)の古城絵図にはすでに見当たりません。もちろん現在も土の下にあります。自然に埋まったというには土の量が多すぎる。ということは誰かが埋めたということも考えられます。
小牧長久手の戦いでは家康の城になりましたから、後に秀吉がそれを嫌がって埋めたのかもしれません。ただ、それならわざわざ埋めなくても壊せばいいわけです。となると江戸時代にずっとこの城跡を保護してきた徳川家が何らかの目的で埋めたのかもしれません。
それはなぜか?小牧山城に関しては文献がまったく何も残っていないことを含めて大きな謎です。信長と家康に関わる戦国期の城が埋められた?とするとそこにはどんなミステリーが潜んでいるのでしょうか。
2月14日に現地説明会があってそれに参加してきましたが、この後の見学等ができるのかは、小牧市教育委員会へお問い合わせください。いずれ早い時期に保護のため、また埋め戻されるはずですので。