2013年5月16日
信長の正室といえば誰もが知っての通り「濃姫」です。斎藤道三の娘とされる濃姫は信長満14歳のころ、尾張との関係を友好に保つため、道三が送り込んだ人質です(現在では濃姫という名は文献上確認されていないとされる)。
「ことあれば信長と刺し違えよ」と言われて尾張に来たなどという話もありますが、それは後世の創作のようで、濃姫に関する資料はほとんどなく、信長公記にも出て来ません。
その頃の信長といえば親衛隊を集め、鍛えることを目的に、うつけ者として尾張中をほっつき回っていた時期でもあり、あまり濃姫をかまってはいられなかったように思います。というのも二人の間に子はなく、また信長も小姓(男性)の方を好んでいた時期のようだからです。
信長が満22歳の時、舅の斎藤道三が息子の義龍に殺されて以降、尾張と美濃の緊張関係は高まり、その結果濃姫の存在意義も薄れ、濃姫のその後の消息もよくわかりません。

そんな信長にも満23歳の時、長男(後の信忠)ができました。産んだのは濃姫ではなく生駒家宗の娘「吉乃」でした。生駒氏は尾張上四郡のうち丹羽郡小折の土豪で、馬借(運送業)を生業としており、その関係で、諸国の様々な人間が出入りする家であったようです(現在では吉乃という名も馬借というのも偽書『武功夜話』による創作で全く史実でないことがはっきりしている)。
そこに信長も出入りしていたのでしょう。吉乃は夫を戦で失った出戻りの娘で、信長より年上でした(これもはっきしていない)。しかし信長はたいそう気にいっていたようで、1566年に亡くなるまで、信忠、信勝、お徳という三人の子を産んでいます。また亡くなったことを知った信長は涙を流したという話まで残っています。

吉乃の住んでいた生駒屋敷は江南市小折町八反畑147の布袋東保育園あたりにありました。保育園の南に石碑と案内板が建っています。屋敷はここから西の方に広がっており、200mほど西、現在は龍神社の入り口あたりが吉乃御殿とされ、そこには当時大きな池がありました。
そして保育園南150mにある久昌寺が生駒家の菩提寺で、生駒家代々の墓と吉乃の墓があります(現在では久昌寺は廃寺となって建物はない)。また龍神社から西側の名鉄犬山線を越えて西400mほどにある田代墓地は、吉乃を荼毘に付した場所とされ、桜の木の下に吉乃経塚があって、その観音像は当時信長のいた小牧山城の方向に向いています。

この生駒屋敷と清須城を直線で結んでみると約11kmもあり、しかもそのちょうど中間に敵方であった岩倉城があります。そんな敵地奥深くにある愛人の家へ、信長が頻繁に通っていたということ、また秀吉もこの屋敷に出入りしていて信長と繋がったらしいこと(これらは武功夜話による創作にすぎない)など、生駒屋敷にはまだ多くの謎がありそうです。
そんなわけでまずは一度、生駒屋敷趾へぜひお出かけください。小牧インターから国道155号線に入ると西へ10分ほどです。