第25回 国内最大の敵、岩倉を浮野で破り、尾張統一目前の信長

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2013年6月6日

1558年、満24歳になる信長はこの年、攻勢を強めます。そこで2月には笠寺のあたりを、そして3月には瀬戸の品野を攻めます。両地域とも尾張でありながら今川勢が進出しており、失地奪還をはかったのでした。

笠寺あたりははっきりしたことがわかりませんが、三河との国境にある山城の品野城を攻めた信長軍は、50余名の戦死者を出す敗北となりました。この城は今川方であった三河の松平家次が守っており、攻略にはこのあと2年かかっています。

その品野城址は瀬戸市上品野町秋葉山の山頂近くにあります。里山登山の心得がある人なら登って行けますが、道もはっきりしておらず下手をすると遭難しかねませんから、ここは登らない方が無難でしょう。途中に東海環状道ができており、その下をくぐり抜ける必要もあります。城マニアの人でもちょっと大変な場所です。

さて5月になると信長に敵対して尾張上四郡を支配していた岩倉の織田信安が、子の信賢によって追放される事件が勃発します。しかしこの信賢も信長に敵対し、美濃の斎藤義龍と手を組みました。この岩倉の混乱に乗じ、信長はチャンス到来とばかり動き出します。

5月28日に2000余騎を率いて現在の一宮市千秋町の浮野へ進軍し、小競り合いとなります。この時は一旦兵を引いて、7月12日にあらためて出陣。その際、信長のいとこにあたる犬山城主織田信清が味方につき、1000の兵を出しました。信長軍は2000で、総勢3000の決戦体制です。

信長軍は岩倉を迂回してその北側にある浮野で北から来た信清軍と合流し、布陣。対する岩倉勢も3000が出てきて、人数的には互角の大戦が明け方から始まりました。激戦4時間ほどで信長勢が優勢となり、岩倉勢を城際まで追い詰めました。

それを見て引き上げようとする信清軍に対して岩倉勢が反撃に転じ、さらに激戦が続きました。それでも最後には信長勢が勝ちを収め、翌日の首実検ではその数1250以上。信長大勝利で終わったこの戦いで主だった家臣を失った信安は、このあと急速に力を失っていきます。

合戦ではこんな話も。岩倉方の弓の名人林弥七郎が退くところに、旧知であった信長の鉄砲指南橋本一把が「助けるわけにはいかんぞ」と声をかけたところ、林も「心得た」と応えて弓を放つと、橋本の脇の下へと命中。その直前に橋本も鉄砲を撃っており、それが林に命中。倒れた林の首を取ろうと駆け寄った信長の小姓佐脇藤八は、林の太刀で小手を切り落とされながらもついに首をとったといいます。

そんな激しい戦いのあった浮野古戦場跡は、一宮市千秋町浮野海道23のあたりにありますが、戦闘は広範囲で行われており、ここはかつて戦いのあとの首塚があった場所のようです。ぜひ訪れてみてください。

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