2013年5月4日
1556年に稲生の戦いで勝利を収めた満22歳の信長。謀反の旗頭となった弟の信勝とその一派は、末森城で同居していた母の土田御前(信長の実母でもある)の仲介で信長に許しを請い、信長もそれを許しました。
ところが翌年、信勝がふたたび謀反を企てたのです。しかしこれは信勝陣営の柴田勝家が、いよいよ信勝を見限って信長に内応し、露見してしまいました。
信長公記は勝家の内応の理由を、信勝が男色の相手を重く取り上げ自分をないがしろにしたため、と書いています。事件の影に女ありではなく、この当時は事件の影に男(男色)ありということもあったわけで、この当時、男色(ホモセクシャル)は当たり前だったのですね。
この時、信勝が信長に対抗するため城にしようとしたのが、尾張四観音の一つ、守山区の竜泉寺です(この件は現在では信勝なのか見解が分かれている)。庄内川にそった絶壁の上、標高65メートルのここは、尾張北部が一望できます。今は模擬城が建っており、そこの先の展望台から絶景が拝めます。ただし日曜祝日のみの開放ですが。記録こそありませんが、ここへは信長も絶対に来たことがあるはずですよ。

さて、信長は信勝の動きを勝家から聞くと、なんと清須城にこもってしまいました。そして明日をも知れない重病になってしまったのです。しかし実はこれが謀略でした。仮病だったのです。信勝は母の勧めもあって、危篤という兄を見舞いに清州城を訪れます。そこを信長の命を受けた河尻秀隆が襲い、城内で暗殺してしまいました。信長、なかなか汚い手を使います。
他にも裏切りの噂を流して赤塚の合戦の相手である今川方の山口教継親子(鳴海城)を、さらには偽手紙を作ってやはり今川方の戸部政直(笠寺城)を今川義元に殺させています(このあたりの話は現在も那古野今川氏の研究の中で検討されている)。勇ましく戦うだけでなく、当時から激しい情報戦があったわけですね。

さて信勝が殺された清須城といえば、信長の死後、その跡目をめぐって有名な清須会議が行われました。これを脚本家の三谷幸喜が小説にしてヒットさせ、さらに自らが監督して映画化し、今年11月に公開されるようです。
本の方は小説というより脚本という感じの軽いタッチですが、それぞれの武将の心理描写がさすがにたくみで、大変おもしろいものでした。ということで、それを元にした映画には期待できるところです。
11月になると清須城は一大ブームになるかもしれません。その予行演習として、今、清州城へ行ってみてはいかがでしょうか。女性信長の清洲城武将隊「桜華組」の雷舞もやってますよ。