2013年7月25日
※この記事を書いた当時はまだ新説に至っておらず、現在の見解とは異なっている部分があることをご了承ください。
いよいよ桶狭間の戦いですが、この戦いに関しては謎が大変多く、決定的な説はいまだ定まっていません。はっきりしていることは、今川義元が上洛を目指して尾張に侵攻したのではなく、信長が窪地で休憩中の義元を討ったのではないか、ということくらいでしょうか(現在では山の上に陣取ったとされてる)。
これらのことにしても、ここ30年ほどの研究ではっきりしてきたことで、それまでは大軍を率いて上洛の途についていた義元を、迂回して山中に潜んだ少数の信長軍が窪地を奇襲して打ち取り、形勢を大逆転させたというストーリーが信じられていました。
この話は旧日本陸軍参謀本部が『日本戦史 桶狭間役』で打ち出したもので、いかにも日本人が好みそうな話となっており、その後の太平洋戦争中でも、実際の作戦上でよく引き合いに出されていたようです。
さて1560年の情勢ですが、前回紹介したように尾張を一応平定した信長にとって、領内にある敵勢力を駆逐することが、まず第一の課題として残っていました。そのためこの年の1月には尾張東部、瀬戸の品野城、その付城の桑下城、落合城という三河松平勢が占拠していた城を攻めて、ここを奪還しています。
こうなると尾張領内で駿河と三河の勢力が入り込んでいる問題の地域は、大高城、鳴海城界隈ということになります。共に伊勢湾へ直接出られる場所であり、海西郡の敵対勢力である荷之上城と連携をとって、伊勢湾の制海権をも脅かしていました。
また信長が18歳で家督を継いだ時、早速に裏切ったのは鳴海城であり、その鳴海と大高を取り戻すことは信長の悲願でした。

そこでまず鳴海城に対する策を講じます。鳴海城は現在の名鉄鳴海駅から北へ300m弱坂を登って行くと城址公園があり、この公園と西側の天神社がその敷地で、城址公園が主郭、天神社が東曲輪となります。
現地に立つと分かりますが、かなりの高台です。当時、鳴海駅のあたりは陸地ではなく入江になっていました。城址公園の南が崖になっていますが、崖下は海だったのです。現在の黒末川が海岸線だったと考えていいでしょう。所在地は緑区鳴海町字城です。

信長は鳴海城を攻めるべく、付城(攻略用の砦)を3ヶ所作りました。一つ目は北500mの現在光明寺がある高台に作られた丹下砦。西側が崖でその下は天白川の河原か、田という好立地です。
残念ながらこの場所は現在特定されていませんが、光明寺あたりであったと思われます。所在地は緑区鳴海町丹下26です。

二つ目は鳴海城の峰続きとなる東側600mに善照寺砦を作りました。ここは北、東、南がすべて切り立った崖で、ここからは東海道筋をずっと見通すことが出来ます。桶狭間を見通すことはできませんがその手前の高根山は直接見ることができます。
今は児童公園になっていますが、見晴らし台もあって、当時同様にすばらしい眺望を楽しむことができます。所在地は緑区鳴海町砦3です。

三つ目として鳴海城から南東へ坂を下って500m、扇川と海との三角州となる中島にも砦を作りました。ここは現在旧東海道が通っている場所でもあり、三河方面から鳴海城への補給路を経つ役目もあったと思われます。現在は住宅地ですが、南側に砦跡の碑が残っています。所在地は緑区鳴海町下中です。
信長はこの三つの砦で鳴海城を完全に包囲(南は海、西は深田ですから)してしまいました。鳴海城は後詰(後方支援)がない限り、落城必至の状況と成ったのです。鳴海城の守備に入っていたのは岡部元信という武将でした。
まずは歩いていける範囲にある鳴海城と三つの砦へぜひ行ってみてください。当時の地形やそれぞれの位置関係がよく分かるはずです。また善照寺砦は信長が兵を集めた特に重要な砦ですので、ご確認いただきたいと思います。