第17回 信長は桶狭間合戦の前に義元に会っていた!? 三河での守護会見

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2013年2月21日

この連載は信長家臣の太田牛一という弓の達人が書き残した信長の伝記「信長公記」を元に書いています。そこには信長が義元と顔を合わせたのではないか、と想像できる記述があります。

それは1556年、信長22歳の時のことと思われます(その後の研究で、この会見は1557年、稲生の戦いの後のこととされる)。先回ご紹介したようにこの年3月に信長は三河を攻めています。これは三河守護吉良義昭(義昭ではなく義安)が今川方から織田側へ寝返ったことによって行われました。

しかしこの義昭という人は、また寝返ったようで(ではなく義昭は当時一貫して今川方)、4月になると今川義元を頼み、信長の主君筋となる尾張守護斯波義銀と会見することにになりました。信長の三河攻めを和睦させるためとも思える行動です(実は今川と織田との一時停戦の儀式とされる)。

会見場所は三河上野原。新東名高速道路豊田ジャンクションの南西、トヨタ自動車上郷工場があるあたりと思われます。この会見に出る斯波義銀の警護として信長軍が、そして吉良義昭には今川軍がつき、両軍はわずか160メートルという至近距離で対峙することになったのです。

このとき義元が三河方面を任せていた軍師の太原雪斎はすでに死んでおり、となれば義元本人が来たのかもしれません。160メートルの距離であれば、お互いの顔がよく見えたでしょう。信長は義元の顔をしっかり見覚え、そのことが桶狭間の合戦で義元本陣を一気に攻めたことに一役買っている可能性はあるのではないでしょうか。この時は小競り合いもなく、両軍は無事引き上げています。(現在では義元が来ていないことが判明している)

三河上野原の場所を特定することは難しいですが、三河の国上野には、平安時代に東山国長親王が別邸を建て、都人が訪れて歌会を行った上野御所があったとされ、元は都人である吉良氏や斯波氏が会見するにはふさわしい場所であったのかもしれません。

いずれにしてもこの頃までは、戦国大名の信長や義元が、室町幕府の守護をないがしろにはしていないことが知れます。しかしやがて斯波義銀は信長を裏切り、吉良義昭も後に家康に打たれてしまうのですが。

ということで、今回ははっきりした場所がわからないため、ご紹介できる写真がありません(現在では場所はだいたい特定されている)。豊田市上郷町藪間に上郷靖国神社がありますが、ここは上野城址で、会見場所に最も近い城です。守護会見の頃は今川方の城でしたが、桶狭間の合戦後には家康が手に入れています。

そして徳川四天王の一人、榊原康政が生まれた場所とされていますが、これもはっきりしたことはわかりません。とはいえそんなはっきりしたことのわからない場所をめぐってみるのも、歴史好きの楽しみではありますね。

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