第11回 長槍が強さの秘密。清須中市場の戦い

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2012年12月19日

若き信長といえば連想されるのは那古野城より清須城でしょう。信長は満20歳のときに清須城へ入りました。当時の尾張の首都ともいえる清須へどうやって攻め込んだのでしょうか。

実は攻めこんではいないのです。ちょっと陰湿なやり方とも思える方法で、信長は清須城を手に入れたのでした。今回は策謀渦巻く清須攻めのお話、その第一回です。

まず、1554年7月12日に清須城内でクーデターが勃発します。守護代織田信友の家老で、影の実力者坂井大膳が守護の斯波義統を襲って、自害に追い込みました。これは理由がよくわからない行動です(※現在では今川方についた坂井大全が形勢逆転のため、反今川の斯波氏を討ったとされる)。このあとの展開を見ると、信長が裏で動いたという印象もありますが。信長にとって幸いだったのは、斯波義統の息子の義銀が信長を頼って逃げてきたことでした。

次期守護の義銀を手中にした信長は、大義名分を手に入れたことになり、さっそく7月18日に柴田勝家に命じて清須を攻めます(※そうではなく、弟信勝の命によるものだろう。)。これが中市場の戦いといわれる合戦です。山王宮(現在の日吉神社・清須市清須2271)のあたりから北北西(清洲桜醸造本社工場の方向)に向かって攻めた勝家は乞食村、誓願寺前と清須勢を追い詰め、町口の大堀の内へ追込みました。

この時、敵の主だった武将30人ほどを討ち取りましたが、ここでも強さの秘密は信長軍の槍が長いことだったようです。ただし今回の軍事行動はそこまで。守護や多くの家臣を失った守護代の織田信友は、坂井大膳と二人でこのあと清須城に籠ることになります。

さて、山王宮は今もありますが、乞食村はもちろん、誓願寺も中市場も現在はありません。しかし旧清洲町史を調べると、このあたりに中市場という地名があったことが分かりました。では肝心の清須城はどこにあったのでしょうか。

現在五条川の西側にある清須古城跡は、信長の次男である信雄の時代のものです。中市場の戦いの攻め方を見ると、この当時の清須城は、現在建っている清須城模擬天守のあたりにあったのではないかと私は考えています。

昨年行われた発掘調査でも、模擬天守東に信長の時代の堀跡が確認されています。これは当時の城の二重掘りの一部ではないかと言われています。なお五条川の川筋は当時、清須古城のあたりから現在よりかなり西南に向かって流れていました。したがってJR新清洲駅のあたりは五条川の東に位置していました。

この時代、まだ天守を持つ城はありませんでしたから、現在の清州城模擬天守は象徴的な建物にすぎないのですが、たまたま建った場所が、信長時代の清須城のあたりだったわけですね。次回はいよいよ信長が謀略をもって清須城へ入る話です。

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