2013年7月12日
1559年(永禄二年)、信長はこの年5月で満25歳になります。2月に上洛して将軍に謁見し、いよいよ尾張の主と自負するようになりました。そして前年の浮野合戦以後、僅かな戦力で岩倉城にこもっていた織田信賢(信長の父の従兄弟にあたるとされる)を排除すべく、3月には岩倉の町を燃やし、城を二重、三重に頑丈な柵で包囲しました。
その上で火矢や鉄砲を時々打ち掛けたので、3ヶ月後、もはやこれまでと信賢とその家来は城を明け渡して落ちて行きました。この落城のおり、岩倉の重臣であった山内一豊の父、盛豊が死亡し、一豊は各地を流浪することになったのです。
こうして尾張一国を完全に手中にした信長ですが、いよいよ桶狭間合戦の時が迫ってきています。そこで今回は、この時期の信長の状況を確認しておきたいと思います(この頃、春日井郡と愛知郡の間には山田郡がまだ存在していた。また知多は尾張ではなく独立した地域と考えられる)。

まず尾張国内勢力は信長の元に一本化しつつあります。しつつあるというのは当時のこととて、名のある武将クラスの人材はそれぞれの領地で一国の主としてふるまっており、信長の命令一下、すべて思うように動くわけではありませんでした。
極端に言えば信長に忠誠を誓っているわけではなく、ただ強い方になびいているだけで、裏切る可能性はないとはいえません。それでも信長には育て上げた親衛隊がいました。この直属部隊はかつては7、800人でしたが、この頃にはさらに増えていると思われます。彼らは信長の経済力により、農作業などを行わなくてよい常設戦闘部隊として存在しており、信長に忠誠を誓っていました。
尾張の外に目を向けると、三年前は友好関係にあった美濃も、斎藤道三を倒した斎藤義龍が信長に敵対しています。しかし美濃でも東部の恵那地方とは、父信秀の時代から友好関係を築いてきています。
かつて斎藤道三と信秀が和睦した頃、信秀は恵那地方とも関係を強めておいたのでした。恵那地方で最も有力な岩村城(恵那市)の遠山景任には信秀の妹が嫁ぎ、苗木城(中津川市)の遠山直廉には信長の妹が嫁いでいたのです。
しかしながらこの頃になると、信州から木曽までを勢力下においた武田信玄の影響力が徐々に恵那地方へ浸透してきており、遠山一族の立場は微妙になっています。信長につくのか、斎藤につくのか、はたまた武田につくのか。
東部といえば尾張東部の品野(瀬戸市)には三河の松平勢(今川の同盟軍)が居座っています。信長は前年の58年3月に攻めていますが、敗北に終わっています。また尾張東南部では笠寺(南区)界隈は奪い返していたものの、伊勢湾に面した大高城、鳴海城(緑区)、さらに東の沓掛城(豊明市)は今川の手に落ちており、尾張南東部の領地に楔を打ち込むような形で今川勢が展開していました。
今川義元は松平元康(後の徳川家康)を人質として育てていましたが、この頃には自分の元という字を偏諱として贈り、自軍の武将として育て上げていました。三河は今川家の発祥の地でもあり、この時点では完全に今川のものという認識だったと思います。
また南部では一向宗である二之江(弥富市)の服部友定が今川と組み、信長に反旗を翻していました。また知多半島でも南部方面には今川勢の侵入があったようです。このように桶狭間合戦の前は周辺すべて敵だらけ。そしていよいよ運命の1560年がやってきます。