第38回 桶狭間合戦の謎解き その真相は!?

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2014年2月27日

※この記事を書いた当時はまだ新説に至っておらず、現在の見解とは異なっている部分があることをご了承ください。

これまで桶狭間の合戦にまつわる地元の史跡をあちこち御紹介してきました。しかしこの合戦にまつわる謎は多く、決定的といえる説は出ていません。迂回奇襲なのか、正面攻撃なのか、今川義元はどこにいたのか…そこで私はこう考えます。

まず1660年(永禄3年)5月19日の信長の動きですが、一級資料である信長公記によれば、

明け方(午前5時頃か)清須城出陣
午前8時頃 熱田神宮に到着 すでに丸根砦、鷲津砦が落ちたのを知る
午前10時頃 丹下砦に入り、続いて善照寺砦へ移動
同時に佐々・千秋隊が今川軍へ突入して敗北
その後、中島砦移り、やがて進軍開始
午後0時頃 おけはざま山際まで進軍(義元は休息中)
その後、にわかに暴風雨
雨が止むと同時に総攻撃開始
午後2時頃 義元を討ち取る
陽のあるうちに清須城に戻る

ということになります。

また今川義元の動きですが、信長公記では、5月17日に沓掛城に入り、18日夜には大高城へ兵糧を入れたと書かれます。また三河物語には19日に「知立より大高へ行く」とあります。さらに丸根砦をよく見て相談し「元康(家康)攻めろ」と命じています。

これらから義元は、沓掛城にとどまっていたのではなく、自ら大高城へ行っていると考えていいのでは、と思います。つまり

18日夜大高城へ移動
19日早朝から丸根砦、鷲津砦を攻略
昼ごろまでにおけはざま山へ移動
信長方の佐々・千秋隊壊滅を見る
おけはざま山付近で昼食中暴風雨になる
雨が止むと信長の総攻撃を受ける
撤退しながら戦うが午後2時頃討たれる

ということになります。

信長は中島砦を出て進軍するときに、「敵兵は夜に兵糧を運んで大高城へ入れ、(朝から)鷲津・丸根を攻めて疲れている。こちらは新手の兵だ。少数だからといって多数の敵を恐れるな。運は天にある。勝てば末代までの高名だ。ひたすら励め」と兵に訓示しており、ここからも義元の動きがわかります。

ということで、信長が進軍し、山際で暴風雨をしのいだおけはざま山はどこなのでしょうか。義元はこの時、その山の上あたりにいたのです。

私はこの山が標高54mの高根山(緑区有松町大字桶狭間高根)ではないかと考えます。この山の周辺には松井宗信隊1500が陣取っていたと地元には伝わっています。

義元は昼ごろ、大高方面から砦を攻撃しながらここまで来て、攻めてきた信長の佐々・千秋隊が討ち取られるのを山頂から目視し、その後少し下がって食事をしていたのではないでしょうか。

するとにわかに暴風雨となり、それが止むと予期せぬ信長本隊による正面攻撃に襲われ、山を下りながら田楽坪古戦場公園のあたりで討ち取られたとすれば、信長・義元の移動を含めた時間経過はほぼ一致します。

信長は中島砦からまっすぐ現在の東海道(当時はなかった)筋を進み、高根山を目指したと考えます。高根山は攻め上るにそう急な山ではなく、山頂からは今も善照寺砦が見えます。当然ながら善照寺砦からも高根山山頂はよく見えます。双方、よく見える位置にいたわけです。

そこで実際に中島砦から歩いて進み、高根山まで登ってみると、時間経過はほぼ合うことがわかるでしょう。ぜひ一度出かけてお確かめください。

注:義元は漆山、高根山、そして桶狭間の山と順に撤退していたと現在では考えるようになり、信長勢は豪雨に紛れて今川勢のいた高根山を迂回し、釜ヶ谷に潜んで雨が上がった後、桶狭間の山にいた義元を奇襲したと考えています。

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