第39回 桶狭間合戦後、松平元康(家康)はどうやって撤退したのでしょうか

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2014年3月19日

※この記事を書いた当時はまだ新説に至っておらず、現在の見解とは異なっている部分があることをご了承ください。

去る3月11日、高蔵寺中日文化センターで行ってきた半年間に渡る「尾張時代の信長を巡る」講座の最終回として、名鉄鳴海駅を出発して、鳴海城址、山王山、丹下砦、善照寺砦、中島砦、鷲津砦、正光寺砦、向山砦、大高城、火上山砦、桶狭間古戦場の各所を4時間でまわる現地講座を行いました。

クルマだとこれだけを一気に回ることが可能です。講座は終了しましたが、この現地ガイドだけでもまた行えないものかな、と考えています。

なお、私の書いた『信長公記で追う桶狭間への道』を読めばご自身でも回っていただけますので、ぜひお求めいただきたく。

さて、これからは桶狭間合戦の後、美濃攻めを行う信長を信長公記をもとに追っていきたいと思います。その前に今回は、やがて信長と同盟を結ぶことになる松平元康(後の徳川家康)が合戦の後、どうしていたかについて考えてみたいと思います。

元康は桶狭間合戦時、今川の先兵として、19日以前に大高城へ兵糧を入れたあと、19日早朝からの丸根砦攻撃に加わってこれを落とし、その後は大高城での休息を命じられていました。しかしその日のうちに今川義元は信長によって討ち取られてしまったのでした。

元康はそれを知らないまま大高城にいました。江戸時代初期に有名な大久保彦左衛門が書いた『三河物語』によれば、義元戦死の噂を知った元康は皆が撤退を進言する中、死亡がはっきりするまで撤退しないと主張。

すると叔父の緒川城主水野信元が「義元は死んだ、翌日になれば信長が押し寄せるだろうから今のうちに退却せよ」と浅井道忠という者を使いによこしました。そこで元康は浅井を道案内に撤退し、23日に岡崎城へ入ったとされます。

この撤退は様々な謎を含んでいます。

まず敵対しているはずの水野信元が、いくら叔父とはいえ、敵将を助けるでしょうか。

桶狭間合戦の謎でも書きましたが、水野信元はこの時信長を裏切って(あるいは裏切ったふりをして)おり、それで堂々と元康を助けたのではないかと思えてなりません。

半田市成岩(ならわ)の常楽寺由緒書には、水野信元内通により家康が危機を脱し、成岩まで逃げてきて、ここから海を渡って三河に入ったとあります。すでに敵地の城である大高城から三河までどのルートで脱出したのか、なぜそれが記録に残っていないのか、これは想像すると面白いですね。

またこの時期に元康は、母の於大が嫁いでいた坂部城(阿久比城・城主は久松佐渡守俊勝)を訪ねたという話も伝わっています。この話は桶狭間の合戦の前と後の二説あり、これもけっこう重要な話です。

というのも、もし合戦前だとすると、大高城の兵糧入れを成功させ、さらには直線で14キロも離れた坂部城まで来ることができたということは、桶狭間から南の多くの領主たちが水野信元とともに信長に反旗を翻していた事にほかならないと考えられるからです。戦後の場合だと逃げるのに必死でしょうから、母を尋ねる暇などないと思うのですが、いかがでしょうか。

その坂部城址は知多郡阿久比町卯坂栗之木谷32-4の、阿久比町立図書館のある場所です。名鉄河和線坂部駅の西南300メートルです。一段高まった場所に広い本丸跡があり、ここには於大が広めたということにちなんだ綿畑もあります。また北側200メートルほどにある洞雲院は久松家の菩提寺で、於大の墓もここにありますので、ぜひお参りしてください。

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