2014年4月9日
1560年(永禄3年)5月19日に桶狭間で思いがけず義元の首級をあげた信長、満26歳。このあとは1567年(永禄10年)に稲葉山城を落として岐阜城とし、天下布武を宣するまで7年間、美濃攻めを続けることになります。
その後の勢いを考えると、この7年というのは信長にとっては大変長い時間です。これまで尾張国内で内戦を戦ってきた信長にとって、美濃を落とすという他国への侵略戦は初めてのことであり、簡単なことではなかったということでしょう。
多くの敗戦があり、信長の詳細な記録である信長公記でもそのことは触れられていません。他の資料も少なく、特にいつ何があったかに関しては、まったくと言っていいくらいはっきりしていないのです。
例えば稲葉山城の落城はかつて、1564年(永禄7年)説がとなえられていましたが、今は1567年(永禄10年)でほぼ間違いないだろうとされています。
ところがその年の何月であったかに関しては8月説、9月説があり、まだはっきりしていません。それから信長に敵対して美濃方についた犬山城(信長のいとこ、織田信清が城主)の落城時期は、これまたはっきりしていません。

何にしろ直接の資料が無いため、状況資料を積み重ねて時期をはっきりさせようという研究が進んでいます、と言いたいところですが、それもあまり進んでいない状況です。ということで、このあとは何年に何があったに関しては、はっきりしていない話であることをご了承ください。
さて、義元を討って東からの脅威をひとまず抑えた信長にとって、次なる脅威は北の美濃です。4年前に信長の義父である斎藤道三を討って美濃を支配した道三の長男斎藤義龍は、道三を凌ぐ強力なリーダーシップを持っていたようで、尾張を虎視眈々と狙っていました(現在では尾張へ侵攻する意思など無かったとされている)。
これまでも、岩倉の織田信安や、信長の兄である織田信広など、義龍の誘いに乗って信長に敵対した者は数多くいます。この頃には、岩倉を信長と共に滅ぼした犬山城主信清に、義龍、あるいは遠く武田信玄からの調略が及びつつありました。
『総見記』によれば、信長は桶狭間合戦から10日ほどたった6月2日に、美濃へ侵攻しました(安八郡に放火)。1000ほどの軍勢が侵攻しましたが、ここでは敗れました。さらに8月にも再度侵攻しましたがやはり敗戦。
岐阜県史には多芸の丸毛氏、池田の市橋氏、大垣の長井氏らが信長に抵抗したとあり、桶狭間勝利の勢いに乗って尾張中島郡から川を越えて西濃へ進出したようですが、負けが続いています。
強力な親衛隊も桶狭間でかなりのダメージを受けているはずなので、それも要因でしょう。こうして信長の美濃攻めは敗戦から始まりました。
