2014年9月24日

桶狭間合戦の翌年である1561年(永禄4年)5月、現在の岐阜県本巣市軽海まで兵を進めた信長ですが、『信長公記』では一旦兵を退いていることになっています。
しかしこれは信長自身が清須に戻っただけで、実際には軍はこの辺りに展開したままとなっていたのではないかと考えられます。
というのも6月中旬になると、揖斐川をわたってさらに西へ5キロの平野庄神戸にまで侵攻し、神戸市場に対して禁制を掲げているからです。この制札(野外に掲げられた看板)には、永禄4年と記されているので、当時このあたりまで信長軍が来たことを示しています。
神戸市場というのは、古くは延暦寺の荘園であった平野庄(岐阜県安八郡神戸町のあたり)で
、日吉神社の門前に開けた市場とされ、当時の主要道の一つである東山道沿いにあったものでした。
清須からは直線距離でも30キロあります。制札は信長がこの市場を保護する目的で掲げたもので、当時ここまで信長の勢力が及んだことを示すものです。特に信長はこうした支配地の経済活動を保護する政策を取ることでも知られています。
この時代、このあたりには大垣(大垣市郭町)に氏家氏、曽根(大垣市曽根町)に稲葉氏、池尻(大垣市池尻町)に飯沼氏、今尾(海津市平田町今尾)に高木氏、神戸市場に近い西保(安八郡神戸町西保)に不破氏という有力武将がいましたが、信長に対してどう対応したかはよくわかっていません。

神戸市場のあった日吉神社は817年(弘仁8年)に最澄が建てたとされます。神仏習合が残り、神社ながら菩薩像や三重塔などが残っていますが、特に国の重要文化財でもある現存する三重塔は、1500年代の初めに作られ、信長時代に入った1585年に稲葉一鉄が修造したもの。
おそらく当時信長も見たであろう室町の建築様式を残すこの塔は、現在もそのままに残っており、必見です。

神戸町のあたりは濃尾平野の最北端にも近く、このあたりまで信長が侵攻できたのは、このころ近江の浅井氏と同盟を結んだからなのではないか、ともいわれています。
斎藤義龍は死ぬ直前のこの年2月から4月頃に近江の浅井氏と戦っており、そこからも信長との連携が想像できます。信長がここまで侵攻できたのは、斎藤義龍が死んだことに加え、浅井の同盟があってのことだったと思われるのです。
それにも関わらず、美濃勢は結束を固め、結局稲葉山城までは簡単には侵攻できませんでした。また信長にとっては尾張国内での謀反である犬山城の織田信清への対応が急務となり、翌年には一旦龍興と和議を結んだともいわれています。西濃方面はその折に、一旦撤退したのではないでしょうか。