第95回 桶狭間の戦いは信長と家康の共同作戦だった!?

2017年5月6日

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先日、BS-TBS「高島礼子の日本の古都」という番組で、桶狭間の戦いが特集され、歴史作家の伊藤潤氏が、桶狭間のキーマンは家康ではないかということを話しました。あの戦いで最も得をしたのは、三河の本領を回復し、その後どんどん大きくなっていった家康だったのではないかとの趣旨です。この説は昔から私も考えているもので、とうとう表に出始めたなと思いました。

そこで今回は、私の考える桶狭間合戦のあらすじを書いておきたいと思います。おそらくまだ誰もここまでは言っていないと思いますので、早い者勝ちで書いておきたいと思います。

①桶狭間の前に信長は尾張を統一しており、次は上洛して尾張以西の西国大名による将軍権威復興を志向していた(それが天下布武)。しかし、東国ではまずいちばん京に近い今川が、関東公方らの意を受けて、上洛の前段階としての尾張侵攻を志向していた。

②この状況の中で、今川の有力武将の一人となっていた徳川家康(当時は松平元康)は、本領の三河を回復し、さらに現状を知った関東への侵攻を密かに志向して、西を目指す信長と利益が一致した。家康は教育を受けた太原雪斎によって、関東の覇者となる考え方を教えられ、またその雪斎の死によって、今川との絆が希薄になり、独立志向を強めていたのだった。

③桶狭間の前に、駿河勢の尾張攻めの先方となって三河にいた家康は、母於大の兄であり、尾張からも三河からも独立した国人領主であった知多緖川の水野信元を通じて、密かに信長に接触。尾張以西を信長が、三河以東を家康が侵攻していく密約を結び、義元の動きを待った。

④そして桶狭間の時がやってくる。義元を抹殺すべく、家康と示し合わせた信長は、今川方となっていた鳴海と大高の城を、丹下、善照寺、中島、鷲津、丸根、正光寺、氷上山の7つの砦で完全包囲し、義元の救援出陣を誘った。

⑤1560年、信長に寝返ったことを義元に悟られていない家康を先鋒として、駿河勢が尾張へ侵攻開始。家康は信元と示し合わせて、織田側であった信元の謀反を演出し、信元ら知多勢を正光寺砦と氷上山砦から撤退させて、大高への兵糧入れを成功させ、さらに義元を合戦前日に大高城にまで引き入れた。

⑥合戦当日の朝から予め示し合わせてあったとおり、鷲津・丸根砦は家康らの攻撃で簡単に撤退し、大高城へ戻った家康は、鎌倉街道方面へ移動しようとする義元の動きを信長へ逐次伝え、それによって信長親衛隊2,000は義元本陣を急襲することができ、勝利を収めた。

⑦義元亡き後は、信長との約束通り、家康は三河を取り戻して今川と決裂。その後はよく知られたとおりの尾三同盟が続くこととなる。水野信元の裏切り芝居が原因で、義元が術中にはまったことを知った鳴海城番の武将岡部元信は、撤退時に水野の刈谷城を襲った。

⑧これらの陰謀はやがて信長が天下を取る過程で無きものとされる。事情を知る信長の家老たち、そして水野信元らは信長によって追放あるいは殺され、最終的には家康にも危機が迫ったため、家康は本能寺の変を起こして信長を殺した。

⑨こうした裏事情は家康存命時にはある程度知られていたが、当然ながら太田牛一も信長公記に書くことはできず、桶狭間合戦は信長公記首巻の大きな謎となった。さらに徳川時代が進むに連れ、神君の秘部として歴史から抹殺され、現在に至った。

この話の史料的な裏付けは難しいですが、状況を考えていくと、こういうストーリーとなってしまうのではないでしょうか。また当時の史料があまりにも残っていない(消された?)ということも、この話を裏付けるようにも思います。私としては、今後は少しずつ裏付けをとり、より確実な話としていきたいと思っています。

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