2024年9月28日

9月7日に鳴海中日文化センターでお話した、信長の有名な家臣・佐々内蔵佐成政についての話ですが、こちらでも少し紹介しておきたいと思います。佐々成政も信長同様、上洛以後の動きはよく知られていますが、若い頃(尾張時代)についてはあまりわかりません。初出史料とされるのは、美濃「軽海の戦い」において「稲葉又右衛門を池田勝三郎・佐々内蔵佐両人として、あい討に討ちとるなり」と『信長公記』首巻に書かれていることです。信長が上洛路確保を目的に西美濃衆と戦い、そこで稲葉一鉄の関係者と思われる人物を池田恒興と佐々成政が二人で討ち取ったという記録ですが、これは桶狭間の戦いの翌年、永禄4年(1561)のことと思われます。ちなみに成政は信長より二つ若い、というのが有力な説です。


若き成政の話では他に、『信長公記』に永禄元年(1558)頃、信長を暗殺しようとしたという話があります。今も残る蛇池(名古屋市西区山田町大字比良)で目撃された大蛇を信長が捜しに来た際に、近くにあった佐々氏の比良城(城址は名古屋市西区比良3丁目501の光通寺)に寄るだろうから、その時に殺してしまおうという陰謀がありました。ただ、この時信長は城へ寄らなかったため無事だった、と書かれていますが、佐々成政がなぜ信長を殺そうとしたのか、本当に比良城主だったのか、そのあたりを今回考えてみました。

まず佐々成政の佐々一族ですが、名古屋市の西区北部から北名古屋市のあたりが本拠地だったようで、『師勝町史・増補版』(1981)によると、井関城(北名古屋市井瀬木居屋敷の全昌寺が城址とされる)がもともとの居城で、その後、比良に進出して城を作ったとされます。佐々氏は、佐々木六角氏がルーツとされ、井関城にいたころから佐々木ではなく佐々と名乗ったとされます。諸説ありますが、佐々成政の父・成宗は文明十一年(1974)生まれ、長兄は隼人正、次兄は孫助、三男が内蔵佐成政とされています。父成宗は尾張守護・斯波氏の配下だったとされ、兄の隼人正は天文9年(1540)、前年に那古野に進出した信長の父・信秀の配下になったとされます。
『信長公記』によれば兄・隼人正は永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で、また次兄の孫助はそれ以前の天文24年(1555)の「稲生の戦い」で、それぞれ信長方として戦死しています。父親の成宗も天文23年(1554)に比良城で亡くなったとされており、桶狭間の戦いの後は、佐々家は成政だけが残ったということになります。二人の兄が信長の勝利に貢献したこともあって、成政は優遇されて信長の黒母衣衆筆頭になったとも言われていますが、そんな成政が桶狭間の戦い以前に信長に謀反することがあったのでしょうか。

一般には暗殺計画があったという1558年ごろ、兄の隼人正は井関城主であったとされ、比良城は父の死後に成政が城主になったのではないかとされています。『信長公記』には謀反を企てたのは比良城の蔵佐と書かれており、成政は内蔵佐を称していたので、彼が信長を暗殺しようとしたと考えられていますが、さてどうでしょうか。というのもこの時期には隼人正がまだ生きていますから、佐々家の当主は隼人正と考えられます。となると兄を差し置いて三男の成政が比良の城を持ち、信長に歯向かおうとしたというのはちょっと不自然な感じが否めません。
実は郷土史家の故横山住雄先生が『暁の小手巻』という本に収録されていたという、斎藤道三から佐々隼人佐宛の手紙を、今から30年も前の1994年に紹介しています。美濃から信長に敵対していた清須の城下を避けて、比良を通り那古野城へ至るルートを佐々隼人佐が確保してくれていることに対し、道三が感謝している手紙で、おそらく天文23年(1554)4月のものだろうとされています。そうなるとやはり比良城は成政ではなく兄の隼人正が城主であって、信長に従っていたものの、道三が死に、稲生の戦いでは弟を失い、一時的に信長に謀反しようとしたのではないかと思えてきます。

この頃、信長の弟・信勝や信長の庶兄・信広などが、美濃の斎藤義龍(道三を殺した息子)からの誘いを受けて、反信長の動きをみせています。そうした流れの中で、隼人正によるこの暗殺計画が企てられたのではないかと推測します。しかし信長が1558年11月に信勝を誅殺したことで、謀反の動きは完全に静まりました。こうした中、一度は裏切ろうとした自身と佐々一族の信頼回復のため、桶狭間の戦い(1560年5月)で佐々隼人正は先駆けとして戦い、死んでいったのではないかと思えてきます。
今回は推測に推測を加えて考えた話ですので、なかなかこれが正しいとは言えませんが、『信長公記』でも古い様態とされる天理本には、この暗殺計画の話自体が書かれていません。それは『信長公記』著者の太田牛一(最近は「おおたうしかつ」と読まれることが多くなりました)が当初は書いてなかったこの話を、なにかの意図を持って、後に書き加えたからでしょう。どういう意図で書き加えられたかはまだまだ検討しないといけませんが、なかなか謎は深まるお話です。
そんなことを知ってから現地を歩いてみる、と言うのが鳴海中日文化センターの私の講座となっています。今年の夏は例年に増して暑く、結局二回しか歩けませんでしたので、10月からの講座の座学は一回だけにして、あとの五回は現地歩きにしました。この半年は、原点に戻って、清須や勝幡を歩きます。よろしければぜひご参加ください。
鳴海中日文化センター2024年後期講座
「信長の前半生を知ろう! 尾張時代の信長の軌跡を歩いてめぐる」
10月5日(土) 座学・歴史学の最新研究でもわからない若き信長の真の姿を考える
11月2日(土) 現地・信長母の清須土田郷から信長時代の清須の姿を探る
12月7日(土) 現地・信長の生まれた勝幡城・津島街道界隈を丹念に歩く
1月11日(土) 現地・当時の尾張と三河をつなぐ重要な拠点の守山城界隈(※1月は第2週に行います)
2月 1日(土) 現地・信長元服の古渡城から経済拠点熱田湊・当時の熱田社へ
3月 1日(土) 現地・信長の経済力の源である津島をじっくり歩いて、改めて知る