2015年10月14日

前に犬山落城は1565年(永禄8年)7月としましたが、最近の研究では2月ではないかとなっています。この辺りの最新研究はほぼ横山住雄先生の独壇場で、昨今の著書では2月とされていますので、それに従いたいと思います。
さて、信清を破って真の尾張の覇者となった信長は、木曽川沿いの小高い位置にある犬山城に入り、そこから北側の対岸の敵を、そして南側の尾張方面を見渡したことでしょう。
今ある国宝犬山城は当時のものではありませんが、犬山城に登れば、信長と同じ視線で見渡すことができます。当時は櫓があったはずですから、そこに登って見たとすると、現在の天守の二階あたりがそのアイポイントとなるでしょうか。
犬山城の天守まで登ると、今では誰もがぐるりと360度を見渡せます。それが信長とおなじ視点でもある、とはどこにも書いてありませんが。(2025年現在、信長の時代の犬山城は現在の位置ではないと考えられている。しかしこのあたりに何らかの偵察施設が作られていた可能性は高いと思われる)

まず南を見ると名古屋駅の高層ビル群が見えますが、そこの手前に小牧山城が重なって見えます。左側には少し高い山がありますが、それは右が本宮山で、左が尾張富士です。本宮山は小牧山城を作る前に信長が、ここに城を作ると言い出した山です。


西側にはライン大橋を挟んで伊木山が見えますが、ここはこのあと信長側の砦が作られることになります。その右側のかなたに稲葉山城(岐阜城)が見えています。目を凝らせば城もよく見えるはずです。


さて北東です。名鉄電車鉄橋の向こう側に木曽川に突き出た小山が見えますが、これが敵、大沢次郎左衛門が陣取る宇留摩(鵜沼)城です。さらにその上流部には多治見某の猿喰城がありますが、そこは山に隠れてちょっと見えません。

信長は宇留摩城を攻略するため、まず木曽川を渡って伊木山に陣を敷きます。信長公記には木曽川ではなく飛騨川と記載されていますが、どうも当時の川の名前ははっきりしません。この山に登ると宇留間摩がはっきりと見えます。
偽書『武功夜話』によると、宇留摩城の開城させたのは木下藤吉郎(後の秀吉)ということですが、残念ながら信長公記には何も記されていません。ただ、この頃から藤吉郎が頭角を現してきていることは想像に難くないところです(2025年現在、『武功夜話』は偽書であることが確定している)。
犬山城に見学に行ったら、信長の視点で周りを見渡すことをぜひお忘れなく。入場料は550円、駐車場は500円です。