第68回 信長が作った城あるいは砦、かもしれない伊木山城

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2016年1月13日

犬山城から見た伊木山

すっかり間が空いてしまったので、犬山から中濃へ進出する信長に関しておさらいです。信長の一級史料である信長公記を読んでも、織田信清の犬山落城に関しては「いつ」が全く書かれていません。

そこでいろいろな資料をあたりながらその時期を探っていくわけですが、前回までにご紹介したとおり、様々な研究の結果、巨大石垣の小牧山城ができたのは1563年の秋ごろで、そのちょっと前に中嶋豊後守の於久地(小口)城が落ち、翌64年に中嶋と黒田城の和田が内応して、年が明けた65年の2月頃に犬山城が落ちたということのようです。

それから信長は犬山城対岸の美濃・伊木山城へ軍を進めて、大沢次郎左衛門の宇留間(鵜沼)城を開城させ、7月になると犬山から北北東へ13キロ、岐阜県加茂郡富加町にある加治田城の佐藤紀伊守親子が内通してきました。

信長は佐藤紀伊守に黄金50枚を贈って戦に備えさせ、その年の8月くらいまでには犬山城の北、栗栖から木曽川を渡って猿喰城を攻め、これを落としたという流れになります。

西区児玉の古い集落にこの碑がある

この佐藤、中嶋、和田の三氏へ調略活動を行ったのが、丹羽長秀でした。丹羽長秀は尾張守護の斯波氏に使えた丹羽長政の次男とされ、1535年の生まれで、信長の一つ年下。15歳の時から信長に仕えたというので、これはもう典型的な信長がスカウトした武家の次男坊ということでしょう。

屋敷は信長が那古野城から泳ぎの訓練のため通った庄内川へつながる美濃路の北側、名古屋市西区児玉にあったようです。まさに近所のワルガキ仲間だったと言ってもいいでは。

丹羽長秀邸跡の碑は児玉3丁目15、薬師寺の西側にあります。このあたりはごく狭い道路しかない古くからの集落です。

さて、前に犬山城から見た伊木山城をご紹介しましたが、伊木山城の現地もなかなか素晴らしいところですので、ぜひ行ってみてください。伊木山の標高は173mで、各務原市埋蔵文化財調査センターによれば、山頂の城の規模は東西90m、南北35mの規模で、6段の曲輪があり初期段階の石垣も埋もれていたとのこと。

信長公記には信長が登って要害をこしらえたとありますから、もしかしたら信長が作ったものかもしれません。現在は山頂に少し広い平坦な場所がありますが、石垣等は埋め戻されているようでよくわかりません。

犬山城を望む素晴らしい木曽川上流方向の眺望

伊木山は伊木の森として、市民が気軽に登れる里山になっています。登山道が整備され、心臓破りの道とかの命名がされていますが、それほどきつい道ではなく簡単に登れます。北側は絶壁で、登ればこの山が自然の要害であることがよく分かるでしょう。

頂上の展望は木が茂っているためやや辛いですが、尾根を250mほど東に行くとキューピーの鼻というもう一つの山頂?があり、そこに展望台が整備されています。

右側に犬山城、橋の左側に鵜沼城、正面の山のむこうが猿喰城
小牧山城の彼方に名古屋駅の高層ビル群

展望台からは、東側に犬山城、宇留間(鵜沼城)、さらにはその奥の猿喰城あたりまでが見渡せ、この城に信長軍が陣取ったことで宇留間城が降伏したのもわかる気がします。尾張方面もよく見え、小牧山城の向こうには名古屋駅の高層ビル群もはっきり目にできます。

伊木山の裾野の県道95号線から中腹にあるレジャー施設・いこいの広場伊木の森まではクルマで登っていけますから、そこから山頂までは登山道で登ってください。途中の駐車場の先にも、ちょっと低いですが東側を望める展望台がありますから、体力に自身がない場合はこちらでも雰囲気は味わえるはずです。

場所は岐阜県各務原市鵜沼1492-1で、登れるのは9時から17時まで、17時になると道路が閉鎖されますからご注意ください。

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