2016年2月19日
大手道を下から望む
信長が初めて自ら作った城として知名度急上昇中の小牧山城ですが、2016年2月13日の土曜日に「主郭地区第8次発掘調査現地説明会」が開催されました。

説明を聞く人々

説明をする小牧山課史跡係主査の小野友記子氏(調査担当者)
この発掘調査は今年度が12年目で、これまでに「3段の石垣」という画期的な発見をしてきたものです。今回の説明会には、雨の降りそうな天候ながら、500名近い人が集まりました。これは小牧山城がこの発掘調査の発表によって、近年相当な関心や知名度を獲得している事を示すものでしょう。小牧市も小牧市教育委員会内に小牧山課という部署まで作って気合が入っています。

大手道の二段目石垣

大手道の入隅部分
さて今年度の調査です。山頂の主郭(本丸)部分へ入る通路と思われる場所二箇所を掘ってみたところ、通路左右の石垣やその側溝が出てきました。そして後に虎口と呼ばれるようになる城郭構造のルーツとも言える、L字にクランクをつけて主郭へ入る構造であることが確認できたのです。また一部で石垣面を覆うような盛土造成も確認されています。

搦手道を下から望む

搦手門の礎石?
江戸期(17世紀中頃)に描かれた古城絵図では南側が大手口、東側が搦手口と思われますが、今回二箇所を掘ってみて、それがはっきり確かめられました。さらに搦手口では門が建っていたのではと思われるあたりから、門の礎石の可能性のある石が出てきました。
これで、ここに何らかの建造物があったことがはっきりしたわけです。ついに建物の痕跡が発見されたのは大きな成果と言えそうです。さらに調査をすすめてもらい、他の建物の痕跡が発見される事を期待したいところです。
永禄期のちひょうの上にこれだけの土が乗っている
小牧山城は徳川家康によって名古屋城が築かれた時に、石垣の石が持ちだされた可能性があります。当時は使われなくなったものはどんどん再利用された時代で、名古屋城には清須城から移築された清須櫓がありますから、そのころ使われてなかった小牧山城の石が運ばれて名古屋城に利用されたとしても不思議はありません。
思うに、その頃の家康は、信長や秀吉といった自分以前の権力者たちの痕跡を出来るだけ消し去りたかったのではないでしょうか。徳川の権力・権威を確立するためです。小牧山城も一部の石などを運びだしたあと、さすがに頂上の石垣までは破壊できなかったため、土をかけて埋めてしまい、さらには尾張藩領として入山禁止措置まで取ったのではないか、と考えてしまいます。

逆にいえば、その頃の小牧山城は、信長が心血を注いで作った、石垣のそびえる相当立派な城の状態をとどめていたのではないでしょうか。近隣の人から信長の城として崇拝されるのは、家康にとって気に障ることだったのでしょう。大阪城も清洲城も、全て跡形もなく消されているのですから、小牧山城もその流れの中にあったのと考えるのが自然だと思います。
そのために小牧山城は幸いにも何百年も土に埋もれていて、それが今よみがえってきているわけです。今後のさらなる発掘成果を期待したいですね。
小牧山城の問い合わせは小牧市教育委員会小牧山課史跡係(0568-76-1623)です。