2016年5月31日

美濃加茂市蜂屋町にある城址碑。この先左手の山の上が砦跡
1565年(永禄八年)9月28日、中濃に進出した信長の軍勢は、岐阜県加茂郡富加町の堂洞砦を取り囲みました。ここは刃物で有名な関市の東5キロほどの位置で、今ではまわりをゴルフ場のコースが取り巻いています。
城址碑は富加町ではなく、山の南側、行政区画としては美濃加茂市蜂屋町中蜂屋にありますから、そちらから行ったほうが、城址へはわかりやすいでしょう。山道を登っていくことになりますから、気をつけてください。
城址にはなんとなく暗い雰囲気が漂っています。多くの将兵がまさにこの場所で亡くなったからでしょうか。他の城址ではあまり感じない独特な雰囲気です。
この砦の攻撃は、信長公記首巻でもかなり詳細に書かれていますが、江戸時代になってから軍記物と呼ばれる読み物でも様々に書かれています。その中の「堂洞軍記」という読み物では、戦いがあったのは1565年と書きながら、信長がすでに稲葉山城を落として、美濃の諸城を順に落としていく途中の戦いとして描かれています。このあたりが軍記物をにわかには信じられないところです。

草生した城址は薄暗い

慰霊碑には永禄八年と刻まれている
堂洞軍記では、金森長近が信長の使いとして開城交渉に出向くと、堂洞城守将の岸勘解由の子で、信長側に寝返った佐藤紀伊守の娘を妻としていた岸孫四郎は、決死の思いを示すため、自分の二人の幼子を金森の前で斬首。更に妻を竹槍で串刺しにして晒しました。
戦いが始まると孫四郎は手勢50騎で大手門から打って出て戦うも、劣勢ゆえ腹を十文字に掻き切って自害。そして父の岸勘解由も自害。孫四郎の母は息子の討ち死にを見てカラカラと笑い自害したとも、あるいは勘解由と刺し違えて死んだとも、と書かれています。
信長公記では、信長の命で松明が投げ込まれて二の丸を焼き崩し、600人ほどが本丸へ逃げ込んで立てこもるところへ河尻秀隆が突入し、続いて丹羽長秀も突入に成功。岸勘解由と多治見一党との激戦が繰り広げられ、敵全員を討ち果たしたと書かれています。そうしたすさまじい戦いだったがゆえ、語り継がれて後に軍記物になったのでしょう。

城址からは加治田の町が見下ろせる
岸勘解由は1547年に信長の父信秀が美濃攻めで大敗をした際、信長の従兄弟となる織田新十郎を打ちとっているとされ、また1555年の斎藤道三と息子の義龍の戦いでは、義龍側についた美濃の有力武将の一人だったようです。同時にこもった多治見一党は、信長が落とした猿啄城から逃れてきた人々です。この多治見氏は美濃源氏、土岐氏の一族です。
ちなみにこの戦いには、信長公記作者の太田牛一も参戦しており、二の丸で焼け残ったと思われる高い屋根の上から、無駄なく正確に弓を射ていました。高台の本陣からそれを見た信長が三度も使いを出してほめてくれたので、実に名誉なことで感激の極みだったと自ら書いています。岐阜に入る前の牛一は、筆働きではなく、信長の御弓衆として実戦で戦っていた武人だったことが、これでよくわかります。
堂洞砦を全滅させたその夜、信長は加治田城へ入り、佐藤紀伊守と息子の右近右衛門と会って、その日は城に宿泊しました。信長自身が出馬してくれ、更に城に泊まってくれたということで佐藤親子は大感激したようです。

この河原あたりで合戦が行われた。左の山が加治田城、右の山が堂洞砦
翌日は加治田の城下で首実検をし、さて引き上げようという時になって、関方面から長井隼人正の軍勢が、井ノ口方面からは斎藤龍興の軍勢が3000という数で攻めてきました。信長軍の手勢は1000ほどで、手負いも多く、劣勢が考えられたため、信長はまず足手まといにならないよう陣夫など撤退させて、自ら足軽のように馬で駆けまわって敵を翻弄し、やすやすと撤退に成功したと書かれます。
ただ実際にはかなり大変な撤退戦だったようで、堂洞軍記によれば、絹丸捨堀(今の保津川・絹丸橋のあたり)で戦いになり、佐藤紀伊守の息子、右近右衛門が鉄砲に当たって戦死。これで信長側についた佐藤紀伊守は息子と娘を失ったことになり、戦の後、信長側についていた斎藤道三の末子と言われる斉藤新五郎を養子にして隠居してしまったそうです。

城址にある看板の文字は判別しづらい
こうした戦いがあった場所ながら、あまり地元ではガイドされておらず、古戦場としては特に整備されていません。富加町というのは1954年に旧富田村と旧加治田村が合併してできた町で、その後の高度成長期には、役に立たない旧村の歴史など、特に振り返らなかったのでしょう。堂洞城の案内看板も朽ち果てていました。ちょっと残念に思いました。