第3回 信長が育った那古野城、泳いだ庄内川

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2012年9月28日

信長は満4歳頃に那古野城へ入りました。兄が二人いたのですが庶子ということで、三男ながら正妻の子である信長が「家を継ぐ」こととなり、母親とも引き離されて英才教育が施されたようです。家老は林秀貞や、平手政秀ら4人。満20歳で清須城を奪い取るまで、15年近い間住んだのがこの那古野城なのです。

さて那古野城はどこにあったかというと、現在の名古屋城東門を入ってしばらく行くと、右手に二の丸庭園がありますが、その一角に那古野城址の看板があり、このあたりとなります。行ってみるとよくわかりますが、ここは熱田台地の北の端にあたり、今でも北側の地形は急に低くなっています。

当時、城の北側は湿地帯で、城の立地的には最適に思える場所です。信長が生まれる10年ほど前、1520年代に今川義元の父氏親が作ったとされるこの城には、先回もご紹介したとおり、今川義元の弟の今川氏豊が入っていました(※これらの説は2024年現在では否定されつつある)。

この頃、今川氏豊と信長の父信秀はけっこう仲が良かったようで、那古野城ではよく連歌の会を催したりしていました。その最中に、体調を崩したふりをして氏豊を安心させた信秀は、城内に自分の家臣を招き入れ、あっという間に城を乗っ取ってしまったとされています。氏豊はそのため京都に落ちていっきました。こうして乗っ取った尾張中心部に位置する那古野城に幼い信長を入れ、家老衆に守りを固めさせたのでした。

那古野城で育った信長ですが、若いころは不良少年だったというイメージが皆さんにはあると思います。しかし『信長公記』によると実際には、17,8歳の頃まで遊びにふけることもなく、朝夕は馬術、弓の稽古、鉄砲の稽古、兵法の稽古、鷹狩、そして暑い時期は川で水練などを日課にしていました。

ただし、普段着は有名な傾奇者(不良少年)スタイルで、稽古以外の時間は城にじっとしているのではなく、お付きの若者らと町に繰り出しては、餅やら瓜やらを立喰しながら、肩を組んで練り歩いたりしていました。そのため、世間からは「うつけ」と言われていたわけです(※一般にはそう理解されているが、現在ではうつけと言われたのは、政治路線の違いから、と考えられている)。

この時期の信長は武家、商家、農民などの次男以下から多くの不良仲間を集め、彼らの中の有能な人財を見つけては、自らの親衛隊としていったようです。つまりいつでも自分の指示で戦える常設軍を作っていたのです。これがやがて信長独自の軍構想へ結びつくわけです。

そんな少年信長が泳ぎを鍛えた川は、那古野城から大垣方面へ続く美濃路を西に進んだところにある庄内川でしょう。カーナビには名古屋市西区城西1丁目12と入れてください。ここから西が江戸時代の美濃路です。まっすぐ枇杷島橋のたもとまで行き、クルマを降りて堤防をあがると、ここで信長が泳いだのかとちょっと感動しますよ。(※美濃路にあたる道は信長の時代、数百m今より北側にあったとされる)

那古野城から庄内川までまっすぐ続く現在の美濃路沿いには、まだ旧街道の趣があり、名古屋特有の屋根神様なども残っています。信長が桶狭間合戦前に祈願した白山榎神社もこの街道沿いにあります。ガイドの看板もところどころにありますから、ここはぜひ歩いてみるといいでしょう。

タイトルとURLをコピーしました