第26回 わずか80人で上洛した信長に暗殺団が仕向けられる

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2013年6月23日

1558年(永禄元年)の7月にあった浮野合戦で、尾張国内の最大敵対勢力であった岩倉織田信賢を下した信長はこの年満24歳。18歳で偉大な父、織田信秀の家督を継いでから6年をかけ、ついに事実上尾張を統一しました。これで尾張の主要なエリアでは信長に抵抗する勢力はなくなったのです。

岩倉城址は岩倉駅の南、五条川の西に残っています。今は何の面影もありませんが、当時は東西90m、南北170mという大きな敷地で、五条川から水を引き入れて二重掘りを持っていました。城址には城の想像図も掲げられていますから、是非お出かけください。

さて統一したとはいえ尾張といわれる地域の一部には、まだ信長に敵対する勢力は残っていました。東の方では瀬戸品野城の松平勢、南西の海岸部では弥富荷之上城の一向宗徒服部友定、南東の方では駿河の岡部元信が守る鳴海城、大高城、沓掛城といった今川勢です。

とはいえ、これらはすべて尾張周辺部であり、広い尾張の主要なエリアでは信長に権力が集中する状態となったのです。そこで信長は、新たな尾張の長として将軍足利義輝に謁見することを決め、1559年2月、80人の共を連れて上洛しました。

供回りも若者ばかりで、ここがハレの舞台とばかり、自身も供の者も装いを凝らして派手に着飾った傾奇者集団だったようです。

美濃の斎藤義龍はこれを知り、30人ほどの信長暗殺部隊を京に派遣しました。この暗殺部隊に気づいたのが、信長の一行とは別に動いていた丹羽兵蔵という人で、怪しげな彼らの素性と宿を確認すると、室町通の上京裏辻にある信長の宿舎へ駆け込み、注進。

信長側近で美濃出身であった金森長近が、暗殺部隊の中に顔を知るものが居るかもしれないと命じられて宿に乗り込み「お前たちが上洛したことは信長様はご存知だぞ。挨拶に来い」というと暗殺部隊も顔色を変えて仰天。

翌日、彼らが三条通あたりに来たところへ当の信長が現れ「お前たちはオレの討手として上洛したのか。若輩の分際で信長を狙うとは、かまきりが勝てもしないのに鎌を振り上げてるようなものだ。出来はしないだろう、何ならここでやってみるか」というので、暗殺団は進退窮まってしまいました。

この話を聞いた京都の町衆の評価は「大将の台詞には似合いまへんなあ」というものと「さすが若い人だけに、やりはりますなあ」という二つがあったといいます。とはいえ信長という売り出し中の尾張の若大将が、京の人々の間に強烈な印象を残したことは間違いなさそうです。

そしてこの時、奈良や堺を回った信長は、尾張以外の世情をしっかり体感したことでしょう。そしてそこをわが手に収めるプランが、いよいよ頭のなかに出来てきつつあったはずです。そして翌年、いよいよ運命の桶狭間合戦となるのです。

ここでちょっとお知らせですが、7月から春日井市の高蔵寺中日文化センターで◆尾張時代の若き信長 ―桶狭間までの軌跡を追う―という講座を、第2火曜日13:30~15:00に開講させていただくことになりました。お時間のある方はぜひご参加ください。

タイトルとURLをコピーしました