2012年12月11日
赤塚、萱津、村木砦での見事な戦いぶりで、もはや尾張のたわけなどというものは誰一人いなくなった信長はその時、満20歳になっていました。いよいよ父信秀を継ぐものとして内外から認められ、尾張全土を牛耳る為に動き始めていました。
村木砦攻めの時に、美濃・斎藤道三からの援軍を那古野城下に置いたことは先回書きましたが、それは前年、19歳の時に道三と会見したことが背景にあります。この会見での信長のみごとな変わり身は、様々な芝居でも取り上げられています。その会見のあった場所とされるのが富田の聖徳寺(しょうとくじ)です。今回はそこへ行ってみましょう。
信長の正妻はよく知られているように道三の娘「濃姫」です。しかしこの人に関しては、はっきりしたことがわかっていません。はっきりしているのは道三の娘であったことで、そのため道三は「うつけ」「おおたわけ」と評判の婿信長を試そうと、会見を申し出ました。
場所は尾張と美濃の国境にあったとされる富田という集落の聖徳寺。信長は鉄砲や槍を携えた親衛隊800人ほどを引き連れ、いつもの「たわけ」の格好で聖徳寺へ向かいました。その行進を富田の町外れで隠れてこっそり見ていたのが道三です。
ひょうたんをぶら下げた信長は見るからにうつけものでしたが、兵が持つ500もの鉄砲、500もの6メートルを超える長槍を見て驚きます(槍は長いほど有利ですが、扱うためには厳しい訓練が必要です)。
聖徳寺に着いた信長は、屏風を立て、その奥で素早く正装に着替え、髪を結い、小刀を腰に挿しました。信長の家臣たちですらがそのかわり身の早さに、ふだんはたわけを装っていたのかと驚きました。
そして正装で身構える道三の家臣らの前を平然と通り過ぎて、縁側の柱に寄りかかり、道三を待ちました。隠れてのぞいていた場所から戻ってきた道三を家臣が紹介すると、信長は一言「であるか」とおなじみのセリフ。この場面、カッコイイですね。
道三はたわけ姿から一変した信長の正装に驚き、苦虫を噛み潰したような顔をしていましたが、会見はつつがなく終わりました。美濃への帰り道に道三の家臣が「信長は評判通りのうつけでしたな」というと、「無念だがわしの息子らは、そのうつけの下につくことになるだろう」と信長の器量、そして軍事力を認めたのでした。そしてこの会見以降、信長をうつけという人はいなくなったそうです。

さて、聖徳寺がどこにあったかは諸説ありますが、現在
一宮市富田大堀413-5
に聖徳寺跡という場所があります。寺は洪水や戦禍であちこちに移転したようで、本当にここにあったかは不明です。特に現在の木曽川にあたる川は、信長の時代、よく氾濫し、今のような大河ではなかったようです。そのあたりのことは第4回に書きましたので、読んでみていただければと思います。
富田まで道三が来たとしたら、ずいぶん尾張に入りこんできたということになります。いずれにしても現在ある聖徳寺跡まで行ってみると、尾張と美濃の位置関係はよく分かると思います。ぜひお出かけください。