2012年12月31日
先の清須中市場の戦いで手勢をすっかり失ってしまった守護代の織田信友と家老の坂井大膳は清須城にこもっていましたが、このままではまずいと、信長の叔父で守山城城主の織田信光に「信長を裏切って清須で守護代になってくれ」と誘いかけました。信光はこの誘いに乗って起請文(神仏に誓った約束文)を書き、1555年4月19日、清須城の南櫓へ入りました。
しかし信光は、信長との間で清須城乗っ取りの謀議をしており、成功した暁には尾張下四郡のうち東半分をもらう約束ができていたのでした。20日に南櫓へ礼に来た大膳は、異様な雰囲気に謀られたことを察し、そのまま城を抜け出して今川義元のもとへ逃走。信光は残った守護代の織田信友を追い詰めて切腹させ、みごと清須城を乗っ取って、約束通り信長に引き渡しました。こうして信長は自らの手を汚すことなく清須城へ入りました。

この頃の清須城がどういう城だったのかは、現在建っている清州城(清須市朝日城屋敷1番地1)を訪問してみると、城内にたくさんの解説が用意されているのでとても良くわかります。
当時の城の想像図、当時の清須の町のジオラマ想像図など、様々な展示がありますので、信長ファンならずともここはぜひ訪れておきたい場所です。入城料は大人300円とお手頃ですが、それ以上の価値のある場所です。
城の西側にある大駐車場も無料ですよ。12/31は休館ですが、元旦は午前6時半から開いています。2日以降も午前9時から開館しています(電話052-409-7330)。

また清須城にも信長、秀吉などの武将隊がいます。でも、なんとこの武将隊、全員若い女の子なんです。その名も「清洲城武将隊 桜華組」。土日と水曜には清須城で雷舞と称するステージが行われています。スケジュールはネットで検索してみてください。毎月一回、信長うつけ祭というイベントも行われていて、100人以上のファンが集まる人気者となっています。なかなか可愛くてカッコいいですよ。

さて、当時の話に戻しますと、信長に清須城を引き渡した信光は守山城から那古野城に移り、大きな勢力となりましたが、なんとその年の11月26日に不慮の死を遂げてしまいました。信長にとってはラッキーなことです。あまりラッキーすぎるので、信長が暗殺したのではとも考えられています。
この頃の信長、けっこう陰湿な感じですが、戦国の世では当たり前の話だったのでしょうね。とにかくこれで信長は清須を拠点として、尾張の南半分である下四郡(愛智、智多、海東、海西)を一応の支配下に置くことになりました。