2018年3月15日

名古屋市の繁華街大須にある亀嶽林萬松寺(名古屋市中区大須3-29-12)。この寺は織田信長の父信秀が自らの菩提寺として、那古野今川家から奪い取った那古野城の南に建立しました。現在の外堀通りから桜通りのあたりまでの広大な敷地だったようですが、家康による名古屋城建築によって現在の地、大須へ移動しています。桜通り南で本町通りの西にある桜天神社はその境内の南端にあったものですから、当時の広さは今でも実感できるでしょう。

抹香投げはなかった、今年の信秀の法要
信長公記によれば、この萬松寺で世に有名なうつけ信長による抹香投げ騒動があったのですが、これは一般に信秀の葬儀の場であったと解釈されています。しかし、先日私の会社から発行した「現代語訳 信長公記 天理本 首巻」(定価1800円)の著・訳者「かぎや散人」氏は、「葬儀とはどこにも書かれておらず、『銭施行』とあるので、これは一周忌などの法要だったのでは」としています。この法要が天文21年に行われているので、そうすると天文20年(1551年)に死去していることになります。これは江戸時代の萬松寺の位牌にはこう書かれていた、という話と一致します。若き信長の動きを研究する上では、信秀死去の年がいつだったかは、かなり重要なポイントとなります。もし萬松寺の話が葬儀だったら、信長公記にはそう書いてあるはず。歴史は通説にとらわれないことが肝心ですね。

移転された信秀墓への精入れ
さて平成30年(2018年)3月3日土曜に、萬松寺では信秀命日の法要が行われました。萬松寺は数年前から本堂の建て替え工事を行っており、それまでは本堂地下回廊の奥にあった信秀の墓碑が2015年になくなってしまったため、今回、新しい信秀の墓碑が作られ、そのお披露目もこの日、同時に行われました。法要には関係者の他、今回の墓碑建設にあたってクラウドファウンディングが行われ、そこで1万円を出資した人も招かれていました。このクラウドファウンディングでは熱心な信長ファンから54万円が集まったようです。ちなみに私は出資してません。どうもすみません。

当日は大藤元裕住職による法要の後、新しい墓碑の除幕と精入れが行われましたが、今回新しい信秀墓碑は地下ではなく一段高い場所となりました。ここは本堂前で、上部にある信長からくり人形の下に位置しています。万松寺はこれですっかり建て代わり、商店街の方からは龍のオブジェと液晶画面による華やかな演出も楽しめます。信長ファンの皆さんはそこからちょっと奥へ入って、信秀の墓碑にもぜひご参拝頂きたく思います。

当日行われた「人間50年…」の幸若舞

当日、法要参列者に振る舞われた湯漬け
さて、信秀の廟といえば名古屋市内にはもう一箇所あります。それが地下鉄本山駅南にある龍泉山桃巌寺(名古屋市千種区四谷通2-16)。こちらは信秀の最後まで一緒に暮らしていた末森城の勘十郎信勝(信長の同母弟)が信秀死後に城の南、末森村二本松に作ったお寺です。寺は江戸時代の1714年に現在の本山の地に移されましたが、桃巌寺の案内文によると信秀の墓はそれ以後もずっと末森城外西北約200mにあったそうで、昭和26年(1951年)の400回忌に桃巌寺へ移されたとのこと。400回忌となると死んだのは天文21年(1552年)となりますが、廟の石碑には「逝去後相当400年成」とありますから回忌ではないですね。となるとやはり天文20年でいいのではないでしょうか。現在桃厳寺にある廟の五輪塔はその時に新たに建てられたもので、地下には石経7万3097個が埋められているそうです。またこの寺には信秀が琵琶湖の竹生島法眼寺より歓請した弁財天像がありますので、ご覧頂きたく(この像の拝観料は1000円)。

信勝は信長に反旗を翻し、稲生の戦いで破れたあと、詫びを入れて助けられましたが、やがて守山区の龍泉寺を砦に改造してまた信長に対抗しようとしたため、最終的には信長により暗殺されています。その彼が建てた龍泉山桃巌寺と天台宗の龍泉寺にはなにか曰くがありそうですが、それは残念ながらわかりません。ちなみのこの桃巌寺は2年ほど前に住職の金銭トラブルが報じられましたが、今行ってみると、そのせいか、かなり荒れた雰囲気で、とても残念に思えました。

あまり知られていないが桃厳寺には大仏がある
信長の織田家だけでなく、人質時代の家康が居たということで徳川家からも庇護された萬松寺と、謀反人信勝の桃巌寺。信秀はもしかすると信長以上の才を持っていた人物ですので、信長ファンはぜひこの2つのお寺へおでかけください。なお、信秀に関しては4月から、鳴海中日文化センターで私の講座が始まります。座学と現地訪問を月替りで行う講座ですのでぜひご参加ください。もちろんこの2つのお寺へもでかけます。