第78回 天空の城、苗木城。ここも信長に大いに関連しています

2016年7月13日

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自然の岩と石垣の見事な調和


天空の城の一つとして最近脚光を浴びつつある岐阜県中津川市の苗木城。木曽川右岸にある432mの城山に作られた城は、明治維新で取り壊されてしまいましたが、江戸期の石垣がきれいに残り、その絶景展望は知る人ぞ知るまさに天空の城です。別名を高森城、赤壁城、そして霞ケ城とも呼ばれます。ここは絶対感動しますから、ぜひ行ってみてもらいたいところです。途中までクルマで登れますので、簡単に登城できますよ。所在地は岐阜県中津川市苗木で中央高速道路中津川インターから10分ほどです。

苗木城天守を一部復元した展望台


さてこの城ですが、1572年に信長の命で苗木城に入った、飯場遠山家の三代目に当たる遠山友政が藩祖となる苗木藩の城です。それ以前、友政とはつながらない室町時代の苗木遠山氏は、幕府奉公衆だったようですが、拠点であった植苗木(中津川市福岡町)から戦国真っ最中の大永・天文年間に、より防御力に優れたこの城を作ってここへ移ったようです。

遠山というと有名なのがTVドラマでも有名な名奉行遠山の金さんですね。信長の時代、遠山氏は東濃の明知、岩村、そして苗木と主に3つの家がありました。金さんのモデルである天保年間の南町奉行遠山左衛門尉景元は、このうち明知遠山氏の分家筋となるようです。

東濃地方の遠山氏、特に苗木の遠山氏は信州木曽との最前線に位置しており、美濃攻めをしている信長にとっては重要な一族でした。例えば信長の妹が苗木遠山家に嫁いで産んだ娘を、信長が養女にして、武田信玄の息子、勝頼に嫁がせているのです。それは堂洞合戦の年、1565年(永禄8年)のことでした(永禄9年説もあり)。

美濃を攻め落としたい信長にとって、木曽を通じて美濃の隣国である信濃・甲斐の巨大勢力武田氏は、ぜひとも友好関係でありたい相手。しかし美濃から甲斐の恵林寺へ移った快川紹喜和尚を通じて、信玄と斎藤義龍は接近していました。これを何らかの外交努力でひっくり返して、信長はこの年9月に養女(姪)を20歳の勝頼に嫁がせ信玄との友好を確立し、1567年には信長嫡男信忠と信玄5女の松姫との婚約も決め、さらに強固な関係を作ろうとしています。養女が嫁いで2年後には嫡男・武王丸(信勝)も生まれています。ただ養女はこの武王丸一人を生んだだけで、信長と武田が対立する直前の1571年には亡くなったようです。

苗木城の素晴らしい眺望


さてこの養女、一般には苗木城主遠山直廉の娘とされ、直廉は信長の父信秀と親しく、直廉は桶狭間の合戦にも参戦したなどとされていました。しかし直廉は1564年に武田信玄から南飛騨出兵を命じられているほどの親武田派。その人の子を信長が養女にするとも思えません。これについて苗木遠山資料館の冊子「苗木の伝説」や「遠山友政公記」にこう記述があります。

当時苗木遠山家に跡継ぎがなく、直廉は岩村遠山家から養子として苗木遠山家に入りました。実はその先代の苗木正廉も岩村から養子で入っています。そしてこの二人の間に実はもう一人岩村から養子に入った武景という人物がおり、この武景に嫁いだのが信長の妹で、武景が1552年に二十歳で死んだため、一人娘を連れて信長の元へ帰ったとしています。そこで信長は手元に居た遠山縁のこの娘を勝頼に嫁がせたわけです。ちなみに直廉は死んだ武景の弟ということになります。

●苗木遠山家当主遍歴

1520年ごろ 苗木遠山景徳(嫡子なし)
1530年ごろ 正廉(養子・岩村遠山景前の弟)
1545年ごろ 武景(養子・岩村遠山景任の次弟)
1552年以降 直廉(養子・岩村遠山景任の三弟)
1572年 直廉の死で断絶

1572年より 友勝(信長の命で飯場遠山家より苗木に入る)
1575年より 友忠(友勝の子・1583年苗木を去る)
1600年   友政(友忠の子・家康の命で苗木回復)

江戸時代の苗木城想像図


岩村遠山家の景任には信長の父信秀の妹が嫁いでおり、この信長の叔母は有名な岩村城女城主として後に悲劇的な最後を遂げる人です。ということで遠山一族は信長の父の頃には織田にかなり近かったようですが、1552年以降に苗木城主となった遠山直廉やその兄である岩村城主遠山景任は、織田側にも武田にも与していたようです。

それでも飯場(恵那郡岩村町飯羽間)を拠点とする遠山の一族は、ずっと信長に近かったようで、直廉が死んだあとには、友勝が信長の命で苗木城へ入り、この家は江戸時代まで続きました。ということで、もし桶狭間に遠山氏が参戦していたとしたら、言われている遠山直廉ではなく、この飯場遠山家の誰かということが考えられるようです。

このころ信長は、中濃から美濃を攻めつつ、東の押さえに家康を置き、さらに武田と組み、北は越後の上杉とも連絡を取るという、外交戦略をとっています。武力があっても外交が下手では勝てないというのは、今も昔も同じですね。

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