第115回 今度は秀吉功路! 名古屋市が中村区で「人生大出世夢街道」事業をスタート

中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

2018年8月21日

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常泉寺の秀吉像


名古屋市が進める武将観光ですが、信長攻路の整備が一段落して、次は27年のリニア中央新幹線開業で注目される駅西、中村区を新たに武将で開発しようという話に。それが武将観光ロード「人生大出世夢街道」(仮称)事業です。信長は人生大逆転でしたが、今度は大出世。河村名古屋市長のアイデアでしょうか、今度は人生大出世です。そう、つまり中村区が生んだ大出世武将である豊臣秀吉と加藤清正を中心にした新たな武将観光を発起しようというもの。ゆくゆくは中川区荒子の前田利家や、名古屋市を出てあま市の福島正則や蜂須賀小六にまでアプローチしようという「出世」をテーマにした武将観光整備が行われることになりました。

武将観光ロード魅力発信会議(2018年8月6日)


信長は実際に長い期間名古屋エリアで活躍したので、史料や逸話もたくさん残っていますが、秀吉となると出生こそ名古屋・中村とされてはいるものの、その後は主に近畿方面で活躍することになるわけで、そこが何よりの課題でしょう。ただ、確かに秀吉・清正ゆかりとされる場所は中村区にはいろいろありますので、そこをアピールすることは「名古屋駅に近い」「知名度は信長より上かも」というあたりで地元としては意義あることと言えそうです。名古屋の賑わい創出という点で、悪い話ではありません。

ということで8月6日に武将観光ロード魅力発信会議が名古屋市公館で市長と有識者を集めて行われました。有識者は林大策氏(愛知淑徳大学交流文化学部教授)、クリス・グレン氏(ラジオDJ・インバウンド観光アドバイザー)、木村ともえ氏(JTB観光開発プロデューサー)、近藤一夫氏(豐國神社宮司)、そして名古屋おもてなし武将隊の豊臣秀吉公です。いろいろ意見は出ましたが、市長からは「ここへ来れば大出世するような気になれる場所という意味で、ビル・ゲイツでも呼んだらどうだ」とまた飛躍した意見がでておりました(苦笑)

その中で、地元代表として近藤宮司の意見は面白いと思いました。曰く、豊国神社へは名駅太閤口からタクシーで来る人もいるくらいなので、綺麗なトイレと「道の駅」のようなおもてなし施設がほしい、とのこと。これは実際に行ってみるとわかりますが、結構重要な指摘だと思います。豊国神社のある中村公園あたりは、隣接する競輪場の雰囲気もあって、今ひとついまどきの観光地感がありません。ちゃんとした観光施設が必要というのは桶狭間古戦場も同様で、いわゆるハコモノということになりますが、なにか必要だと思います。また宮司は、住民の盛り上がりもないので「夢」という言葉を盛り込みたいとも。住民は一般に地元の歴史とか観光とかにはあまり興味が無いものですから、夢をキャッチフレーズに何か一緒に盛り上げる工夫が必要でしょう。

そのような話がなされる中で考えられた「人生大出世夢街道」(仮称)は今後、強力に推進されていくことになりました。会議の結果、まずはキャッチコピーが「ここから、太閤秀吉 人生大出世夢街道」、観光ロードの愛称は「秀吉功路」というあたりになりそうです(これは今後まだ変更の可能性もありそうですが)。まずは21年度までに、絵本太閤記などを参考にして秀吉の出世を描いた30のモニュメントを、名古屋駅西から中村公園までの沿線に設置して「秀吉功路」とすることが決まっています。

消えてしまった鎌倉街道の面影を今に残す東宿の明神社


ということで、今回はそれに先駆けて中村区エリアの武将観光、というか秀吉観光を軽くご紹介したいと思います。

まず豊国神社のある名古屋市中村区中村町に関してですが、信長の時代は尾張国愛智郡中村で、平安時代にはすでにあった地名です。1km西の庄内川を渡れば海部郡大治町(信長の時代には海東郡)という名古屋市の西端です。中村の西隣りには東海道が整備される前の主要街道・鎌倉街道の東宿があったため宿跡町や東宿町という地名が残り、海東郡萱津へ渡る船待ちの宿場町が栄えた場所と思われます。鎌倉街道はその東宿から中川区の露橋へ向かって南東へ延びていたと考えられ、中村はその鎌倉街道沿いの集落となります。今の地名を見ても、南東方面へ中村町、中村中町・本町、下中村町と続いています。

この街道沿いというのは結構重要で、中村で生まれた若き秀吉は、旅人と出会って各地の話を聞くことができ、その話に心躍らせて南の三河・遠江へ、北の美濃へと放浪しようとしたのではないでしょうか。そしてその際には家の近くの鎌倉街道を南へ北へと一本道で行くだけでいいわけです。秀吉が生まれた中村はそういう場所で、秀吉の自由な行動力や発想はこの中村生まれということが大きいのでは、と思う次第です。

さて名古屋駅から大出世夢街道となる駅西商店街を西へ向かい、豊国神社の参道と交差する、中村町7を右折すると、駅からはわずか2.5キロで豊国神社です。ここは明治18(1885)年に明治維新政府が、反徳川として秀吉を持ち上げる中で建てられたもの。案内によれば、明治34年に中村公園が神社周辺に整備され、明治43年には愛知県が拡張して迎賓館も建てられたとのこと。この明治の迎賓館は中村公園記念館として今も残っています。ただ明治21年頃の地図と大正9年の古地図を見比べると、この一帯の住居が移転させられて公園にされた、そんなふうに思えなくもありません。

中村公園内には出生地の碑が建てられ、若き秀吉(日吉丸)となかまの子供らの像などもあります。ただ天文6(1537)年といわれる秀吉の出生地に関しては諸説あって、史料もないため実は定まりません。中村公園のあたりは明治初期の地図を見ると上中となっています。中村はかつて上中村、中中村、下中村とあったようですが、明治初期の地図には上中、下中はあっても中中はありません。なごや古道街角案内人の池田誠一氏は、本当は中中村で生まれたのではないか、太閤秀吉の記憶を消し去るため、徳川幕府が中中村を抹消したのではないか、と著書で推測されています。

中村公園敷地東側には若狭9万石を領した木下勝俊(長嘯子・ちょうしょうし)宅跡があります。秀吉の妻おねの兄の子で、秀吉の一門衆で晩年は歌人として名を成した人物です。そしてその隣が日蓮宗・太閤山常泉寺。、創建は意外に新しく慶長年間(1596~1615)で、秀吉の依頼で建立された寺とされ、生誕の地として産湯の井戸や小田原攻めの帰りに植えたとされる手植えの柊(五代目)があります。何よりこのあたりで唯一の秀吉の銅像があり、観光的にはこれは重要では。

そして寺の正門西には小出秀政の出生地もあります。秀政は秀吉より年下ですが、秀吉の母の妹を正室にしています。秀吉の配下となり、長じて秀頼の守役として知られる武将で、関ヶ原合戦では真田昌幸同様、息子二人を東西に分けて生き残りを図っています。その結果、小出家は、家としては幕末まで続いています。

ということで、中村の武将観光のご紹介は、次回に続きます。

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