2018年11月27日

毎年、発掘によって着実に信長の小牧山城の姿を明らかにしてくれている小牧市の「史跡小牧山城主郭地区発掘調査」。今年の第11次発掘調査では、またまた素晴らしい発見がありました。山頂に近い部分(主郭地区)で建物の一部がみつかったのです。それは二棟と思われる「礎石建築物」の一部(礎石)や玉石敷、側溝といったものです。

説明をする小牧市教育委員会小牧山課史跡係、小野友記子主査。この方が発掘調査をしています
小牧山城といえばこれまでの調査で、山頂の平地を取り巻く一段目、その下の二段目、そして自然の岩や石垣で構成された三段目という、三段の石垣があったことがわかっています。これは高い石垣を積む技術がまだない当時に、下から見上げた時に三段の石垣が一段の高い石垣にみえる、という効果を狙ったものとされてきました。今回みつかった屋敷の位置は、三段目の石垣の南側の広い曲輪部分(調査では曲輪023と呼ばれている)です。三段石垣の段と段の間の平地スペース(ここが曲輪と呼ばれている)は比較的狭いものと思われてきましたが、今回の発掘調査では、三段目石垣の前の平地部分に、建物が建っていたことが確認されたのです。この部分は自然の岩塊を人工的に削って下半分の岸壁を作り、その上半分に石垣が積まれていて、その高さは約5.8mもあります。つまりこの石の壁と石垣を背景にして建物があったということになります。

5.8mの壁の前、ちょうど見学者がいるあたりに建物が建っていたと思われます

建物の想像図が展示されていました
その場所ですが南(今の市役所建物の北側)からまっすぐ登っていくメイン登山道である「大手道」が山の中腹を過ぎたあたりで右に折れ、曲がりくねりながら山頂へ上がっていく、その途中の東のあたりが曲輪023です。ここがどれくらいの敷地面積であったのかはわかっていませんが、北側の岸壁に近い位置に礎石が並んでおり、岸壁に接するようにに何らかの建物が建っていて、玉石敷の通路と、排水路と思われる側溝も確認されました。さらに天目茶碗や当時高級輸入品とされた青磁の小椀もそのあたりから出てきました。

敷き詰められた玉石と側溝。右側に建物の礎石があります

建物の礎石が並んでいます。左側に玉石が見えます
玉石敷は当時、位の高い人のみ使用が可能なものとされていましたから、これらから想像すると、ここには誰か偉い人が茶を飲むこともある建物があった、ということになります。岐阜城や安土城では、信長は山頂の屋敷で生活していたという記録がありますから、この建物も信長か、あるいはその家族などのための施設ということになるのでしょう。信長の館が小牧山城の山頂部にもあったということが考えられます。

玉石敷きの右側あたりで出土した天目茶碗(左)と青磁碗(右)
小牧山城はこれまでの発掘調査から、石垣を見せて周囲を威嚇する城というイメージでしたが、今回その石垣が少し隠れてしまう位置に建物が立っていたことがわかったので、考え方を少し変えないといけないかもしれません。小牧山城は石垣・岸壁や建物(それは山頂部分にも当然あったはず)で構成された、まるで後の安土城のようなトータルな建造物だった可能性が出てきたわけです。しかもそれは攻撃には弱いと思われる直線的な大手道が象徴するように、戦いのための城というより、やはり見せるための城という要素が強いものでしょう。

建物の背景には岩盤を削って加工された岸壁とその上に石垣がありました。
これまでの発掘調査による小牧山城の姿があまりに進歩的なものなので、小牧山城の石垣整備は信長ではなくその死後、次男の信雄が尾張を支配していた時代に清州城などと同様に行われたのではないかという意見もあります。実はこの信長の時代には、まだ建物に瓦は使われていませんでした。いわゆるお城=天守閣は安土城から始まっていますから、それより古い小牧山城に建物があったとすれば、瓦葺きではない寺院や神社のような建物であったはずです。そしてこれまで瓦は見つかっていません。小牧山城が信長による建築であったかどうかは、今後も瓦の出土がないことによって証明されると思われます。もし瓦が出てしまったりすると、話は一気に覆ってしまうのですが。

大手道から建物への進入路と思われる玉石敷。川の丸い石が運びこまれています
11月18日に現地説明会がありましたが、発掘調査は続いていて、説明会の2日前にも新たな礎石が発見され、これによってもしかすると二棟の建物ではなく一棟の大きな建物であった可能性も出てきました。また曲輪面の岩盤に80cm✕70cmの二辺で深さ60cmの穴が2つ発見されています。小牧山城には井戸はみつかっていませんから、下から水を運んでここにためていた水瓶なのかもしれません。

岩盤に穴を開けて作られています
ということで今回もまた素晴らしい成果をあげた小牧山城の発掘調査。現地説明会には遠く鹿児島県からやってきた参加者もおり、500名を超える人がこの世紀の発見を目にしました。これまでの発掘場所と同様に、調査が終われば保護のために埋め戻されてしまいます。発掘場所が生で見られるのは現地説明会だけです。次回はぜひ皆さんもご参加ください。