2015年4月16日

小牧山城の話でずいぶん停滞してしまいましたが、信長の美濃攻めに関して、話を進めていきたいと思います。その前に簡単におさらいを。
1560年5月に桶狭間で今川義元を破った信長は、その勢いで西濃から美濃を攻めましたが、うまくはいきませんでした。61年4月頃には三河を攻め、豊田市あたり(当時の高橋郡)までを手中に収めます。その年5月になると美濃の斎藤義龍が若干33歳で病死?します。
これに乗じてまた西濃に侵攻し、現在の安八郡神戸町あたりまで攻め上りましたが、尾張犬山城の織田信清が反旗を翻したこともあって、美濃とはいったん和議となったようです。そしてさっそく犬山側の前線である於久地城(小口城)を攻めますが、ここでは大きな損害を蒙りました。

その後は様々なことが起きますが、年次は諸説ありなかなか正確な年を比定できません。しかし63年に小牧山城を作ったことは間違いなく、その前には三河の松平元康(後の家康)と同盟を結び、信長娘の五徳4歳と元康長男の竹千代(信康)4歳の婚約を決めました。
またこの頃、美濃を挟み撃ちにできる北近江の浅井賢政(長政)の元へ、妹のお市を嫁がせたという説もあります。そうした体制固めをしながら、数え年30歳の信長は、自ら設計した尾張の新首都とも言える小牧城下町の整備を進めていました。
そして力攻めだけでなく様々な調略活動をすすめます。特に犬山の家老で黒田城の城主和田新介と、於久地城主中島豊後守が信清を裏切って信長側に寝返ります。
この工作には丹羽長秀が関わったようですが、この頃になると、木下藤吉郎(後の秀吉)も頭角を現し始めているようで、確かな記録は何もありませんが、藤吉郎もそうした調略に関わっていたのではないかと思われます。
戦わずして勝つのがもちろん理想的ですから、信長はそれまでもいろいろと調略活動をしています。弟信勝を仮病でおびき出して暗殺していますし、叔父の信光も不審な死に方です。鳴海城の山口親子も謀略で今川に殺させました。
こうなると義龍が死んだことも案外…と思えてしまいます。信長ってけっこう陰湿。しかし当時はそれが当たり前だったのでしょう。

さて寝返った黒田の城址は葉栗郡木曽川町(現在は一宮市)にありますが、この城は1545年生まれの山内一豊生誕の地とされています。天文年間(1532-1555年)には岩倉城の織田伊勢守家家老だった一豊の父盛豊の居城でしたから。
1559年に岩倉城が信長に攻め滅ぼされたあとは、前の守護代織田達勝の弟の子供、あるいは犬山信清の弟といわれる織田広良が信長の命でこの城に入りましたが、1561年の軽海の戦いで戦死。そのあとに和田新介が入ったのでした。
鎌倉街道沿いの城趾(JR木曽川駅南200m)は現在の黒田小学校で、遺跡は何も残っていないですが、東のJR東海道本線との間に紹介施設がありますので、ぜひ行ってみてください。
※この記事を書いた頃は信長が美濃を攻略しようとしていたと考えていましたが、現在では信長は上洛用に西美濃を通過したかっただけで、それを斎藤義龍・龍興が許さなかったため、全面戦争となっていたと思っています。また家康は天文4年の初めには信長との提携を成立させていたというのが、最近では定説となってきています。